黒澤明の幽霊

『黒澤明の幽霊』


「前に、一番驚いたテレビ番組の話をしてくれたけど、面白かった。また、そんな話、ないか」

 プロの劇団に、アマチュアとして時々参加しているのだが、練習の後の飲み会にもたまに参加する。その初飲み会の時にした話を気に入ってくれたらしい。

 顔ぶれは、その時と同じ(だから思い出してくれたのかな)、劇団の看板俳優、河口達也先生三十代半ば、アマチュアだけど毎回出演してる直子さんと典子さんの永遠の二十九才コンビ、そして十七才の私だ(あんまり云うと二人にコロサレル)。

「そうですねぇ、夏真っ盛りですから、怪談話でも一つ」

「おっ、良いねえ。すいません、お銚子もう一本、冷やで」

「怪談を肴に一杯ですか。じゃ、私達も」と直ちゃん。すかさず典ちゃんが

「すいませーん、ビール追加ー」

「これは以前話した叔父の体験です。黒澤明って知ってます?」

「当たり前だろう、なぁ」

「私たちでもけっこう観てるよ」と典ちゃん。直ちゃんが「うん。それで?」

「その黒澤明監督が亡くなった一九九八年九月六日の翌日の、テレビや新聞で大きく報じられた七日、NHKのBSで急遽、『乱』を放送したそうです 」

「へえー、知らなかった。『乱』か。うん、劇場で観たな。全盛期の作品には及ばないけど、『リア王』の時代劇化としては成功してるし、色のシンフォニーと最後の無情感は素晴らしい映画だった」

直ちゃんは「私も観てるよ、DVDで」

典ちゃんは「私はテレビかな」

「でしたら話しやすいんですが、叔父は以前ビデオで観て、BS が二度目でした」

「ふん」

「壮大で極彩色な戦国絵巻と心理劇が繰り広げられるんですが、静かな場面でおかしな事に気付きました」

「おかしな事?」と直ちゃん。

「何か不思議な音が聴こえるんです」

「ンッ?不思議な音?」と典ちゃん。

「はい、不思議な音です。物凄く小さい音で、何の音なのか分からなかったそうです」

直ちゃん「どんな音?」

「いわゆる、ゴニョゴニョ、ゴニョゴニョゴニョッ、っていうやつですね」

典ちゃん「へえー、そんな所、あったかな」

「例えば、根津甚八演じる次男と原田美枝子演ずる妻の、室内での激しいやり取りの後の静寂な場面や、最後の、隆大介演じる三男が撃たれ、仲代達矢演じる大殿が、廃墟となった城跡の石垣に立ち尽くす所です」

「あぁ、確かに静かな場面だった」

「何ヵ所かで聴こえて、最後の場面でも聴こえてきたので、音量を最大に上げてみたら、どうも人の声らしいと」

「へえー」

「それでもはっきりとは分からない。そこで後日、レンタルビデオで『乱』を借りて観直した、というか聴き直したそうです」

「分かったの?」直ちゃん。

「いえ、分からなかった、というより、入ってなかったそうです、そんな音」

「エッ、入ってない?」典ちゃん。

「という事は、叔父さんの聴き間違いなんじゃないの」

「叔父は、イヤ、絶対に聴こえてた、と」

直ちゃん「フゥーン」

典ちゃん「で、どうしたの」

「NHKに電話しました」

「やったか」

「で?」と典ちゃん。

「此れ此れこうで、おかしな音が聴こえた、と」

「で、向こうの反応は」が直ちゃん。

「当然、ただのクレームマニアか変なおじさん扱いです、文字通り」

直ちゃんが「やっぱり」

典ちゃんも「そうなるわな」

「まぁ、そっちのテレビが混線したんでしょ、みたいな事を云われたそうです」

「ウーン、常識的に考えればソレかな」

「確かまだ暑さの残る九月で、黒澤監督の亡くなった翌日だし、黒澤マニアのおかしな奴が、テレビじゃなく頭の中に電波が飛んで来て、黒澤さんの声が聴こえる、みたいな受け取り方をされたのかも」

「そこまで云う」

「いや、云われた訳じゃないですよ。でも、天下のNHKからすりゃあ、いや、私だってそう考えるかも」

「ウーン、かわいい姪っ子からそんな事云われたら、叔父という同じ立場からするとカナシイ…」

直ちゃんが「イヤ、達也先生はまだ若いしィ格好良いしィ」

典ちゃんが「ホラホラ、涙を拭いて。チーンしなさい」

 なんだかなぁ。


 バカな三人芝居がしばらく続いた後、

「で、その後どうなった」

「はい、叔父はとりあえず引き下がったんですが、その年の暮れ、十二月二十六日、NHK の、今度は地上派で『乱』が放送されたそうです」

「アーッ、それ私も観た。年賀状書きながら観てた」と典ちゃん。直ちゃんも

「私も」「俺もだ」「みんなヒマか。まあいいや、それで叔父さんはどうした」

「あの時一回だけだったのか、それとも今度も起こるのか、とにかく録画して確かめようと」

「ふん、面白くなってきた」

「録画しつつ『乱』を観たそうです」

「どうだった」

「今度、も、聴こえたそうです、変な音が」

直ちゃん「やっぱり」

典ちゃん「そう来なくっちゃ」

「で?」

「しかも、たぶん、同じ人の声で、更に放送中だけでなく、録画再生した物からも」

典ちゃん「オー、証拠もある訳だ」

「音の聴こえる場面を音量を上げて何度も観て、何の音かもほぼ分かったそうです」

「俺は気づかなかったなぁ」「私も」「同じく」

直ちゃん「なんの音だったの」

「とりあえず、それは置いておきます。

 では問題です。その音は、なぜ聴こえたんでしょうか」

直ちゃん「エーッ、分かんないよー」

典ちゃん「ヒントヒント!」

「ヒントは話の中に出てるんですけど。

 じゃあ、その当時は、DVDではなく、まだビデオだったという事です、叔父さんだけじゃなく、世間も」

典ちゃん「それだけ?」

直ちゃん「少なすぎる!」

「もうちょっと」

「じゃあ、音の正体は、二0二0年に亡くなった、一九八六年のスーパースターに関係あります」


 三人が考えている間に、鞄から白い紙を取り出し、ある言葉を書いて足元に伏せた。そして、

「分かりましたか」

「よし、じゃあ私から」

 直ちゃんが真っ先に手を挙げた。

「イヨッ、直子姉さん」

「お調子者!」

「まあまあ、抑えて抑えて。

 私は黒澤明監督の幽霊だと思うな。だって亡くなった翌日でしょ。しかもレンタルビデオには入ってないんだよね。だから、黒澤監督が自分の遺言を全国の人にどうしても伝えたいという想いが、魂となって電波に乗って」

「でも年末にも聴こえたんでしょ」

「最初の時は急遽BSで放送したんでしょ。だからほとんどの人が観てなかった。で、年末もう一度放送した時に再び…」

「ウーン、話としては面白いですけど、ねぇ?」

「じゃあやっぱり叔父さんのビデオテープに前の音が残ってたんじゃない?」

「それでは放送中に聴こえた説明が付きません」

 そう云うと、典ちゃんが、

「じゃ、今度はあたし。やっぱり混線だと思う。叔父さんの家、というかアンテナというかテレビにだけ、何か別の音が入ったんじゃないかな。原因はトラックの違法無線とか、ラジオやテレビの音が電離層の乱れで混入したとか?詳しい事は解らないけど、あるんでしょ?そういう事」

「二回目も?」

「そう。そういう事が起きやすい家なのよ、場所が」

「確かに家の前は県道で、百メートル前が国道、百メートル後ろがバイパス道ですけど」

「やっぱり」

「けど、一度目と二度目が同じ音だった理由は?」

「ウーン、そこは聴き間違いなんじゃない?」

「いえ、同じなんです。それに全国的にビデオだったというヒントと関係がないですし」

「エーッ、ダメなの?」

「ダメです」

「うぇーん、直ちゃん!」

「典ちゃん!」

「自分一人若いと思って私たちをいじめるー」

「はいはい」


「じゃ、最後は俺な」

直ちゃん「ヨッ、真打ち登場!待ってました」

典ちゃん「あっしらの仇を討ってやっておくんなさい」

すると達也先生「古い、だからおばさんて…」

「なんだとコラァ!もういっぺん言ってみろ」

「テメェ、無事に帰れると思うなよ」

「えーん、彩月ちゃん、達也先生がいじめるー」

 …やれやれ。


「気を取り直して。えー、一回目も二回目も同じ音が聴こえる。しかしレンタルビデオには入ってない。全国的にビデオだった。以上から考えると、NHK の放送したビデオテープに秘密があると思う。とするとその当時、すでに副音声とか二か国語放送はあったんじゃないかな。その音が何らかの理由で小さく流れてしまった、どうかな?」

「なるほど、静かな場面で聴こえたので、二か国語放送ではあり得ないと思うんですが、目の見えない人向けの解説音声なら可能性はありますね」

典ちゃん「おっ、正解か」

直ちゃん「これは一本取られたな、彩月ちゃん」

「ただ、その当時、目の見えない人向けの副音声放送があったかどうか」

「ウーン、九八年かぁ、どうだったかなー。なかったかもしれないなー」

「達也先生もダメかぁ」


「じゃあ正解を言いますね。達也先生は良い所までいってるんですが、詰めが少し」

「わー、彩月がいじめるー」

「もうその下りはいいです。秘密というか原因は、副音声ではなく、テープそのものにあったんです」

「ンッ、どういう事?」

「二度とも同じ音が聴こえた事から叔父は、放送自体に音が入っていると考えました。しかしレンタルビデオの『乱』には入ってないのだから、原盤ではなくNHKの放送だけにです。更に副音声とは考えられない事から本放送の主音声自体にです」

「ふむ」

「しかし二度とも同じ音だったという事は、放送している時のテレビやラジオの番組の音声が混じったのではない」

「うん」

「とすると考えられるのは、映画会社とかから借りた原盤を、放送用ビデオにダビングする時に音が混じったのか、放送用ビデオに元々入っていたのではないか」

「なるほど」

「さらに、録画再生の音を何度も聴いて音の正体を突き止めました」

「それよ、それ。なんだったの」と典ちゃん。

「サッカー中継でした」

「サッカー中継?」

「はい。サッカーワールドカップ一九八六年メキシコ大会決勝のアルゼンチン対西ドイツ戦です」

「アーッ!マラドーナの五人抜きと神の手ゴールの大会だ」

典ちゃん「それがスーパースターか」

直ちゃん「志村けんかと思った」

典ちゃん「なんで」

直ちゃん「変なおじさんとか言ってたから」

「まぁ、ある意味マラドーナも変なオジサンだし…、最後は変なオバサンだったけどな」

典ちゃん「そんなにはっきり聴こえたの?」

「いえ、聴こえたのは全部で二、三分ぐらいですから。なぜ判ったかと云うと、叔父はその試合を観ていたからです」

直ちゃん「叔父さん、サッカーファンなの?」

「いえ、野球ファンですけどサッカーは。Jリーグもできる前ですし」

典ちゃん「じゃあなんで」

「たまたまです」

「たまたま?」

「はい。名古屋にいた頃、生中継をやってたので偶然」

「それで良く覚えてたな」

「印象に残る出来事があったので覚えてたと」

「へぇ、何?」と直ちゃん。

「試合終了後、アナウンサーが解説者に、メキシコ大会の総評を尋ねたそうです。すると解説者は、「この大会の成功は、メキシコのサッカー○○○○とでも言うべき国民性が」とか言ったそうです」

「うわー、おもいっきり放送禁止用語」

「はい、今では聞かれない言葉です。その後、何度も再放送されたそうですが、そこはカットされてたらしいです、時間の関係もあるんでしょうが」

「だろうな」

「ダメなんだけど、解説者とメキシコ国民のサッカー愛が共鳴した故の発言だろうから、むしろ解説者の人柄がうかがえて微笑ましい、と叔父は言ってましたが」

「それで覚えてた訳だ」

「はい。で、推測だが、NHKは放送用と記録用のビデオがあって、八十六年から十年以上経って再放送もないので、サッカー放送用のビデオに、『乱』の放送用をダビングしたのではないか。ところがそのサッカー中継の音が残っていて、静かな場面になると微かに聴こえたのではないかと。

 以上の推測と証拠を踏まえて」

「ほお」

「叔父は再びNHKに電話しました」

典ちゃん「やった!」

直ちゃん「で、どうなったの」

「叔父は今言った事を全て話し録画音声も聴いてもらいました。そして二日後の同じ時刻に電話するので、それまでに調べて欲しいと」

「で、結果は」

「叔父が私にこの話をしてくれた時の事を再現します」

 そう言うと、足元に伏せておいた白い紙の上下を持って、三人に見せた。そこには一言、

 〈勝訴〉


 その後分かった事だが、高性能なメタルカセットテープは、専用の録音機器でないと前の音が残る事があるらしい。急遽の放映のためのダビングで、同じ事がビデオテープで起こったのかもしれない。

 今まで、この事実を知っていたのは、叔父と、私と、NHKの一部の人だけだろう。

 その後、『乱』三度目の放映があったが、音はなかったそうだ。叔父は、キチンと対処してくれた事に感謝している。

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