第47話 落日

 私が大きな声を上げると、陣内のポーカーフェイスが崩れ、少し驚いたような顔をした。


 その顔を見て、私の心に、さらに苛立ちのような思いが込み上げて来た。

 最も信頼している人に裏切られたように思え、怒りだけでなく不安な気持ちにもなった。



「まさか、ヘッドハンティングなんて、無いよね。 冗談を言って良い場じゃないのよ」


 自分を失ってしまい、少し声が裏返った。



「陣内、答えてくれ!」


 父は、私の言葉を無視するかのように、陣内に問いかけた。


 彼は黙ったままだ。

 しかし、いつもと少し様子が違った …。



「私達には、信頼関係があるよね。 裏切る訳がないわ。 あなたを信じているし …。 それに、今回の件が上手く行った暁には、役員になれるのよ! これからも、私を助けてくれるんでしょ!」

 

 私は、いつの間にか、陣内を縋るような目で見つめていた。



「この会議の場で話すつもりは無かったのですが …。 社長の仰る通り、誘われています」


 陣内は臆する事なく、堂々と話した。



「相手に、何て言われたの? 具体的に説明してよ」


 私は、自分でも分かる程に冷静さを欠いていた。

 恐怖のような感情が芽生え、声が震えた。

 


 そんな私を、父は悲しそうな目で見ていた。失望しているのだと思った。 

 そんな気がした …。


 私は、夫と別れてから、その傷を癒すように仕事に打ち込んで来た。

 いや、仕事に逃げていたから、元夫の事を忘れられていたのだ。

 陣内は、仕事の歯車のようなものだった。

 私に寄り添ってくれる、また、決して裏切らない、大切な存在であった。


 それが、自分を見捨てて行ってしまうのかと思うと、居た堪れなくなった。



「先ほども申し上げましたが、自分は幼少の頃より空手を学んで来ました。 これは、今は亡き父から引き継いだものです。 大学時代までは、人生の一部でしたが、ある理由により、それを封印しました。 しかし、先日、菱友さんと手合わせした事により、封印したために忘れていたものが蘇ったのです。 それは、心の底から湧き上がる情熱のようなものです。 彼女は、ただ優れているだけでなく、人を惹きつける魅力があります。 菱友さんから、政策秘書にならないかと誘われました。 空手の技を交えた時に感じた何かを、直接、見てみたいという強い思いに駆られています。 しかし、桜井社長への恩義も感じているため、迷ってもいます」


 陣内は、厳しい表情で父を見返した。

 そこには、私が入る余地は無いと思えた。



「陣内よ。 空手の事は良く分からんが、今、君が言った情熱とは、全ての物事に通じるパワーの根源のようなものなのだろうな。 それは、その状況に応じ、意欲なのかも知れん。 いや、精神力。 それから、渇望や欲望なのかも知れん。 そのパワーを、菱友香澄に感じたと言うことか …。 確かに、そんな力も大切だが、経営は綺麗事で済まされない。 この事は、陣内に十分に教えたはずだ!」


 父の言葉を聞いて、陣内は小さく頷いた。



「桜井社長から、裏の手解きを学びました。 今回の件で、ベストな対処方法を、どのように考えるか …。 社長のお考えは理解しているつもりです」



「そうか。 では、私の考えを言い当ててみろ」 


 父は、心底嬉しそうだ。



「分かりました。 但し、この話をしたからには、自分が三笠を出る事になりますが、よろしいですか?」



「ああ、構わん」


 嬉しそうに答える父を見て、その気持ちが理解できず、私は危機感を覚えた。



「ちょっと待って! 陣内は、三笠を出る前提で話している。 パパ、彼を止めて!」


 父は立ち上がると、私の肩に優しく手をあてた。



「さあ、陣内。 話してくれ! 私の考えを言い当ててみろ!」



「社長のお考えは、今回のヘッドハンティングを、千載一遇のチャンスと捉えています。 経営は、知識、行動力、策略、謀略、そして信頼関係です。 特に信頼関係においては、自分より上位者と結ぶ必要があります。 自分を、住菱グループの次期代表である菱友香澄に送って、それを足掛かりにして、新たな信頼関係を築く …。 また、場合によっては、この私を利用して、相手の情報を探る。 そのように、お考えかと思います。 そうなると、田川正蔵を切ることになります」



「そうだ、その通りだ。 陣内よ、住菱グループとの仲を取り持ってくれ」


 父は、部下である陣内に頭を下げた。

 


「ちょっと待って! それでは、私の意見はどうなるの?」



「その話は、この私に任せてくれ。 悪いようにはしない。 桜井専務は、下がって良いぞ」


 父に言われ、私は惨めな気持ちになった。

 陣内だけでなく、父にまで裏切られた気がした。



 私は、執務室に戻り、茫然と壁を眺めていた。

 気力が起きず、何も、考えたくなかった。


 陣内の言った「心の底から湧き上がる情熱のようなもの」が、尽きてしまったのかもしれない。

 ふと、元夫の事を考えた。


「あの人は、今、どうしているのかな?」


 私は、思わず呟いていた。



ピロン


 スマホにメールが入って確認すると、それは父からであった。

 そこには「重要な話があるから、定時に帰宅しなさい」と書かれてある。


(なんで、さっき話さなかったの? 陣内に言えない事なの? 仕事の事は家庭に持ち込まないって言ってたのに?)


 数々の疑問が浮かんだ。

 私は、父の事が分からなくなってしまった。

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