第42話 信頼できる関係
剛武流の型の動きは、自然の脈動を表すが如くゆったりとしている。また、演舞の時間も人によっては1時間近くかかる。
陣内は、この型を古式に忠実に演舞しており、見事なものであった。
玉の汗を流してはいるが、呼吸は一才乱れていない。
そして、始めてから1時間ほどが過ぎたところで、静かに、その動きを終えた。
「見事だわ!」
美しい女性が、いつの間にか側に来ており、陣内に声をかけた。
「ありがとう …」
陣内は、改めて女性を見た。
彼女は、優しげで整った顔立ちをしており、滅多に見かけないような美人だった。また、背が高くスラットしており、177センチの陣内と変わらない。
彼は、物事に動じない肝の太さがあったが、すっかり彼女に見惚れてしまい、照れた子どものように顔を赤らめた。
「あっ、失礼。 菱友さんですね」
陣内は、我に返り、慌てたように言葉を重ねた。相手が、菱友香澄である事は、直ぐに分かった。
「はい、菱友です。 陣内さんですね」
「はい」
「師範から、あなたが道場で待っていると聞きました。 要件があるとの事ですが、練習の後で、食事でも取りながらどうですか?」
「菱友さんの時間が許すなら、それで、お願いします」
「それから …。 準備運動をした後に、組み手をお願いしたいのですが、よろしいですか?」
香澄は、少し遠慮がちに尋ねた。
「はい。 ぜひ、お願いします」
陣内は、香澄の申し出を快く受け入れた。
その後、2人は軽く礼をしてから、空手の組み手を始めた。
練習とはいえ、実践を想定した本格的な組み手であった。
陣内は、最初、女性と思い手加減していたが、その考えは直ぐに吹き飛んでしまった。
香澄の突きや蹴りは鋭く、達人の域に達していた。それに対し、陣内は終始押され後退した。
彼は、そんな彼女を信じられない思いで見たが、後半には余裕がなくなってしまい、肩で息をするようになっていた。
最後は、組み手とは呼べず試合の様相になり、陣内は受けるのが精一杯で一方的に攻められるようになっていた。
そんな時、誰かが大きな声で叫んだ。
「それまで!」
いつの間にか、師匠が側に立っていた。
その声を聞き、香澄は動きを止める。そして、2人は対面に移動し、礼をして別れた。
「早速、試合か? 何と気が早い」
「いえ、組み手をしていただけです」
師匠の言葉に、香澄は恥ずかしそうに頭を掻いた。
少し、反省しているようだ。
「陣内よ。 だから勝てないと言ったんだ。 学生チャンピオンが、かたなしだな」
「はい。 道場から離れていたとはいえ、菱友さんの強さは本物です。 自分の完敗です」
陣内は、息が苦しそうだが、香澄は、全く乱れていなかった。
「陣内さんも、とてもお強いです。 昔の友人を思い出しました」
そう言うと、香澄は優しく笑った。
この後、1時間程度練習した後、約束通り、2人は食事に出かける事にした。
陣内は、香澄の運転手付きの車に便乗させてもらった。食事の場所についても彼女の馴染みの店に行く事になった。
香澄は、日本を代表する企業グループの後継者にして、超のつくセレブである。
陣内は、懐が心細く不安になっていた。
そんな彼の気持ちを知ってか知らずか、香澄は、終始、優しい笑みを浮かべていた。
その後、車は都内の小さな食堂の前に停車した。
「ここは、高校の時から来ている馴染みの店なのよ」
香澄は嬉しそうに話すが、どう見ても、普通の定食屋にしか見えない。
近くに、難関進学校として知られる上等学園高校があったから、香澄の出身校なのだろうと思い、陣内は納得した。
「いらっしゃい!」
店の暖簾をくぐり中に入ると、店主の威勢の良い声がした。
「お世話になるわ! いつものを二人前頼むわね」
店主に声をかけると、香澄は、勝手に厨房の方に入って行った。
「菱友さん、なんで調理場に?」
「陣内さん。 私に着いてきて」
「えっ?」
陣内は、不思議に思いながらも、香澄の後を追う。そして、厨房を抜けて、玄関を上ると、奥の方に歩いて行った。
「ここよ」
部屋に着いたようだ。
香澄が襖を開けると、少し広めの座敷があり、大きめのテーブルが置いてあった。フカフカな座布団は、いつでも使えるように準備してあるように見える。
「失礼します」
陣内は、誰もいない部屋に声をかけ、香澄に続いて入る。そして、彼女に促され、対面に座った。
「空手の稽古、楽しかったわ。 久しぶりの組み手だったから、つい、本気になっちゃったわ。 また、道場で相手をしてね」
香澄は、終始笑顔で楽しそうだ。
「はい。 自分も、とても楽しかったです。 でも、かなり疲れましたが …。 それにしても、菱友さんは疲れ知らずですね」
「怠けずに、道場に通っているからよ。 体を動かすのは好きなの」
香澄は、爽やかに笑った。
(噂通り、凄く綺麗な人だな)
陣内は、心の中で思い、香澄をチラッと見た。
「高校時代なんだけどね …。 仲の良い友達と、この店で、度々ミーティングをしたんだ。 無理を言って、この部屋を貸してもらってから、なぜか、今でも使ってるんだ」
香澄は、当時を思い出すように遠くを見た。とても、良い思い出のようだ。
「菱友さんは、上等学園高校の出身なんですか?」
「いいえ、違うわ。 私は、駒場学園高校よ。 その友達が、上等学園高校に通ってたわ」
駒場学園高校は、菱友家が関わる住菱グループが関係する、伝統のある難関進学校だ。陣内は、彼女の話を聞いて納得した。
香澄は、大きな目を細め、感慨深そうな顔をした。
「料理は、私が勝手に頼んだけど我慢してね」
「構わないさ。 ちなみに。何の料理かな?」
「野菜炒め定食の大盛りよ。 とても美味しいの。 この店に来ると、いつも頼むのよ。 楽しみだわ」
陣内は、料理が庶民的過ぎて驚いてしまった。それと同時に、財布の中身の不安がなくなり安心した。
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