第26話 風間の誘い

 父と話してから1週間が過ぎた。

 

 平井は、今までの傲慢な態度を改め、私の顔を見ると揉み手をしてへつらうようになっていた。

 恐らくは、兄に何か言われたのであろう。

 兄もまた、父に何か言われたに違いない。

 しかし、私はその事を、敢えて父に聞かないようにした。



 今日は、父に紹介された企画調査部の飯野課長より、西國商会の株式及び財務に関わる基礎データの提出を受ける日だ。

 

 私は兄に負けたくない気持ちが強くなったせいか、西國商会の企業買収に全力を傾けていた。


 それと …。

 熱中するのには、もうひとつ理由があった。

 仕事に没頭しているときだけ、元夫の事を忘れることができたからだ。


 剛の事を思い出すと、自分が耐えられなくなってしまう …。だから、ますます仕事にのめり混んでしまった。




 午後1時を、少し過ぎた頃である。



 秘書室の、後藤から内線が入った。


「立田の風間常務から、お電話ですがいかがしますか?」



「つないで、ちょうだい」



 外線に切り替わると、嫌な声が聞こえた。


「やあ、優佳里。 元気か?」


 相変わらず能天気な男だと思った。


 以前なら、この声を聞くとワクワクしたが、今は気持ち悪くて仕方ない。

 自分の事ながら、心の変化に驚いてしまう。

 精神科医に言わせると、元夫への罪悪感から、誰かを悪者にしないと心が持たないそうだ。我ながら、自分勝手な心だと思う。

 


「3日おきに電話してきて、何言ってんだか? 相変わらず変な人ね」


 私は、ことさらに大きな声で返事した。



「つれない事を言うなよ! 声だけで、一度も会ってくれないじゃないか? なあ、美味しいものでも食べに行こうぜ? 決して、下心はないからさ。 フランス料理が良い! そうだ、カサブランカはどうだ?」


 相変わらずデリカシーがない男だ。

 カサブランカは、風間と浮気するキッカケとなった店だ。

 

 これまで、しつこく食事に誘われていたが、夫と別れる原因を作った風間のことが許せず、全て断っていた。



「なあ〜。 どうだ?」


 風間の、阿呆っぽい声にイラついてしまう。



「 ・ ・ ・」



「なあ、返事してくれよ?」


 私は、西國商会の買収に、風間を利用できるかもしれないと考えていた。

 また、それが元夫への償いになる気がした。加害者である私が思うこと自体、盗人猛々しい話だが、それでも少し気が晴れた。


 私は離婚してから、自分の中の何かが変わった気がする。

 それが自分にとって、良い事なのか悪い事なのか、分からない …。



「分かった。 今夜、カサブランカに行くわ。 ところで、予約してないけど大丈夫なの?」



「今夜か? 急だけど何とかする。 俺は、元オーナーシェフだから大丈夫だ」



「じゃあ、午後6時に行くから、あとは任せたわ。 私に恥をかかせないでよ!」



「ああ、任せてくれ! スゲ〜楽しみだぜ!」


 風間の嬉しそうな声が響いたが、私は、それを冷めた心で聞いていた。



◇◇◇



 午後3時を過ぎた頃、飯野課長が訪ねてきた。



「桜井専務。 例の基礎データをお渡しします」


 飯野は、ポータブルハードディスクを差し出した。


 私がそれを受け取ると、彼は続けた。



「20年分のデータなので、かなり膨大な量になります。 解析には高性能なコンピュータが必要と思いますが、いかがしますか?」


 飯野は、少し心配そうな顔をしている。



「心配ないわ。 大学時代の友人が経営してる会社に、データの属性整理と紐付けを依頼するわ。 これが手間がかかる作業なの。 解析の行程は、秘匿事項にあたるから、私が直接やるわ。 プログラムで実行命令を与えればコンピュータが勝手に処理するから、手間はかからない。 後で仕様書を渡すから、レンタルのスパコンを手配してね」



「桜井専務が、ご自身でですか? 私も、お手伝いしたいところですが、プログラムとかチンプンカンプンで、役に立てそうにありません。 スパコンの件、承りました。 社長の特別決裁で動きます」


 飯野は、感情を込めて話した。


 淡々と話す陣内とは対照的だ。同年代だが、性格が正反対のように見える。

 但し、社長の懐刀だけあって、2人とも凄く優秀だ。

 


「これからも、私を支えてちょうだいね?」



「もちろんです。 桜井専務をお支えするよう、社長からも厳しく言われております」


 飯野は、赤い顔をして深々と頭を下げた。

 


◇◇◇



 私は、飯野からもらった基礎データを、大学時代の友人に預けたあと、カサブランカに向かった。


 店に着いたのは、約束の午後6時を15分ほど過ぎていた。


 風間は、待ちかねたように、私を出迎えた。

 彼は、上等なスーツを着こなし、颯爽としてカッコ良い。いかにも女性にモテそうだ。

 以前の私なら、見惚れるところだが、今は、それが返って気持ち悪く思えた。



「やあ、よく来てくれた。 俺が責任を持って送るから、運転手には帰ってもらってくれ」


 私をどうにかしようとする、風間の魂胆が垣間見える。

 この男は、私の心の変化に気づいていないようだ。



「ダメよ。 運転手の控え室と食事を用意して! 無理なら帰るわ」


 私は、キッパリと断った。


 風間といる事が、とにかく苦痛だったのだ。



「まあ、優佳里が言うなら、しょうがないか …。 用意するよ」


 風間は、露骨に暗い顔をした。


 その後、彼に案内され、最上階の一室にある、海が一望できる窓際の席に座った。


 元夫と来た時の事を思い出し、悲しくなったが、風間への復讐を思い、気持ちを奮い立たせた。


 風間は、当然のような顔をして対面に座った。



「優佳里、よく来てくれた。 俺は、君の事を愛しているんだ」


 風間は、前と変わらない、少年のような爽やかな笑顔で笑った。

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