第9話 オーナーシェフの実情
私が、落ち込んでる事を察したのか、夫はわざと明るく話しかけてきた。
「今、言った取引については、優佳里が気にする必要はないよ。 俺の会社は海外輸入に強みがあるけど、国内は弱いから契約を切られても仕方ないんだ。 でも将来的には、大手に負けないコネクションを見つけるつもりさ。 今回は、二見食品に譲るけど、次は負けないからな!」
夫は、優しく笑った。
「その食材取引について、カサブランカの条件書をもらったわ。 今度、二見食品から見積りを提示するの。 ごめんなさい」
私は、夫に謝った。
「気にするなよ。 次はどうなるか分からないぞ。 油断するなよ!」
再び、夫は笑った。
いつもの笑顔だが、良く見ると、風間とは、まるで違っていた。2人の顔を重ねていた自分が不思議になった。
私は夫が好きなのだと再確認した。
だから、夫を失いたくないと思うと、凄く不安になってしまった。
「そんな事より、明日も仕事だ。 早く食べて風呂に入って寝るぞ!」
「そうね、急がなくちゃ!」
「遅いから、一緒にどうだ?」
「フフ、そうだね」
夫に誘われて、自然に笑顔になった。
風間とキスをした事など、すっかり記憶の彼方に飛んでいた。
夕食を終えると、直ぐにお風呂に入り、当然の成り行きで、夫に抱かれた。
私は、このうえない幸せを感じた。
「剛、凄く良かったわ。 愛してる」
耳元で囁くと、夫は私の唇に軽くキスをしてくれた。体がジーンとして幸せな気分になった。
夫が、私の心を上書きしてくれて、風間の事を忘れられた気がした。
朝起きると、夫はいつも通り早く出勤していた。
リビングに行くと、テーブルにメモ書きがあり、朝食が用意されていた。
いつも通りの光景であるが、改めて夫の深い愛情を感じた。しかし、それに伴う罪悪感から、声を上げて泣いてしまった。
私は、朝食を食べながら、再び風間の事を考えていた。
彼を愛おしく思う気持ちに偽りはない。
私の心は、夫への罪悪感と風間へのおさえられない愛情が交錯し、揺れ動いていた。
そして、そんな自分が嫌になり、嫌悪感でいっぱいになっていた。
会社に出勤し部長室に居ると、伊藤課長が訪ねてきた。
「失礼いたします」
朝から、元気の良い声が聞こえた。
「入ってください」
私も、落ち込んだ気持ちを隠すように、精一杯大きな声で答えた。
伊藤が私の机の前に来ると、開口一番、昨夜の商談内容の確認を求めた。
外食グループ立田については、先方が日程調整してる事、それとは別に、カサブランカの食材の商談があり条件書をもらった事を説明した。
「そうですか、本命の立田はこれからなんですね。 カサブランカについては至急見積書を作成します。 この内容なら問題なく提供できます。 ところで、カサブランカって、立田が出資した、高級フレンチレストランですよね」
「そうです。 それが何か?」
「立田の社長の肝入りと聞いています。 意地でも成功させなければならないハズなんですが?」
「どういう意味ですか?」
「オープン直後に、なぜこの時期に食材を変更するのか不思議に思えて …」
伊藤は、首を傾げた。
「コスト削減と聞きましたが?」
「高級路線で出店したのなら食材は妥協しないハズです。 それに、この店は、ミフィランの星を狙ってると聞いています。 だから、フランスの食材にこだわって、それを売りにすると思うんです」
「昨夜、生ハムを試食しましたが、日本の豚肉の方がマロヤカで美味しいと思いました。 カサブランカのシェフも同意見だと聞いています。 それでも、味ではなく産地にこだわるのですか?」
「味は人それぞれ感じ方が違います。 立田とカサブランカの間で、コンセンサスが取れていれば良いのですが? とはいえ見積り書を提出しますが、ひっくり返る事が心配なんです。 場合によっては、本命の立田との取引にも影響します」
伊藤は、経験上何かを感じているようだ。
「昨日商談したのは、カサブランカのオーナーシェフで、立田の社長の次男です。 だから、間違いないと思いますが?」
「えっ、風間社長の次男と交渉したんですか?」
伊藤は、驚いたような顔をした。
「何か、問題がありますか?」
私は、自分の未熟さを指摘されたようで、少し腹が立った。
「オーナーシェフと言いましたが、お飾りだと思います。 立田の風間社長は、やり手ですがワンマンなところがあり、意に沿わぬ事は認めないハズです。 全幅の信頼を受けているご長男の専務以外、口を挟めません。 立田は一族経営の会社でありながら大手に急成長しましたが、実は、専務が優秀なんだともっぱらの評判なんです。 社長のヒラメキに対し、専務が的確に実務をこなす、二人三脚の会社だと聞いてます」
「次男の立ち位置はどうなんですか?」
「言いにくい話ですが、放蕩の部類かと。 父親の社長や長男の専務のような経営に関する資質がないから料理人の道に進んだと聞いてます。 フランスで修行しましたが、大学卒業後では遅すぎます。 あくまでも形だけ、実質的には他店から引き抜いた支配人のシェフが采配してるとの噂です」
「本当なの?」
私は、驚きを持って伊藤の話を聞いた。
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