第5話 やりがい

 伊藤課長が席に戻ると、私は風間 涼介に電話しようとした。


 しかし、受話器を取る手が震え、できなかった。初恋の相手だと意識し、緊張してしまうのだ。

 その後、深呼吸して心を落ち着かせた。


 私は、意を決し受話器を上げた。そして、以前もらった名刺の番号に電話した。



「カサブランカでございます。 ご予約でございますか?」


 感じの良い、女性の声が聞こえた。



「二見食品の井田 優佳里と申します。 風間オーナーシェフをお願いしたいのですが?」



「あいにく今、手が離せないので、後ほどこちらからお電話いたします。 失礼ですが、ご連絡先をお教えいただけますか?」



「私の携帯にお願いします」


 いつでも電話を受けられるよう、自分の携帯番号を伝え、電話を切った。



 その後、様々な会議等があり忙しい時間が過ぎた。やはり部長ともなると何かと忙しい。これまでになかった事なので、すごくやりがいを感じていた。

 また、年上ではあるが、部下の伊藤課長もしっかりとサポートしてくれる。

 私は、水を得た魚のように、生き生きとしていた。



 午後3時頃、会議の最中にマナーモードのスマホが振動した。

 見ると風間からだったので、急ぎ席を外し電話に出た。



「はい、井田でございます」



「優佳里さんか? 電話をもらったのに出られなくてゴメン。 でも、君から連絡が来て嬉しかったよ」



「そんな …。 忙しいのに、すみませんでした。 実は、お願いがあってお電話しました」



「優佳里さんの頼みなら何でも聞くよ。 お願いってなに?」



「実は私。 二見食品の営業部の部長に昇格しまして …」



「えっ、おめでとう。 一社員からすごい出世じゃないか! 何でも協力するさ。 それから、敬語はやめてくれよ」



「分かったわ。 実はね、外食グループ立田と弊社で取引ができないかと思ってるんだけど、実現の可能性はあるかな?」



「食材については、既に大口取引があるようだが …。 専務の兄貴に相談してみるよ。 俺の店なら即OKなんだがな!」



「ありがとう。 でも、できたら社長のお父様とお話しをさせていただけないかしら。 難しいかな?」



「いきなり親父か。 う〜ん、でも何とかするよ。 俺に任せとけ!」


 風間は、自信を持って答えた。そして続けた。



「この件とは別に、俺の店との取引をお願いできないか? 安定した食材の供給が必要なんだ」



「そうなの? 詳しく話が聞きたいわ」


 夫の事業と重複があるか気になったが、話だけでも聞こうと思った。



「ぜひ、お願いしたい。 今夜9時に店に来れないか?」



「夜の9時に …。 湘南のお店に?」



「ああ、仕事のきりが良い時間帯なんだけど …。 でも良く考えたら、優佳里さんには家庭があるから、夜の9時だと時間が遅いかな?」



「仕事だもの、大丈夫よ。 営業スタッフとお伺いするわ」



「ありがとう。 待ってるよ」


 電話を切った。

 

 その後、伊藤課長にカサブランカへの同行を求めたが、子どもの世話があるとの理由で断られた。

 伊藤から、他の社員を同行させると言われたが、今日は重要な話にならないと判断し、1人で行くことにした。

 当然、夫にも仕事で遅くなる事を伝えた。



 午後7時に、JR特急湘南5号に乗り藤沢駅で降りた。そこからタクシーに乗り、カサブランカに着いたのは午後8時30分過ぎだった。


 少し時間が早かったため、周辺を散策した。この前、夫と来た時とは違い、眼下には街の灯りが美しく広がっていた。


 しばらく、時間を忘れ見入っていたが、夜道の女の一人歩きは物騒と思い、カサブランカに引き返した。


 店に到着したのは、約束の5分前で、ちょうど良い時間になっていた。


 受付にオーナーシェフと約束してある事を伝えると、奥の応接室に案内された。

 待つ事10分、風間がやって来た。



「遅い時間に悪かったね。 あれ、優佳里さん1人かい?」



「急な事だったので、私1人で来たの。 今日は、聞くだけになると思うわ」


 私は、名刺を差し出した。



「へえ〜。 特命営業部長か。

 何か、刑事ドラマの相暴に出てくる特命係を連想してしまう」



「変人見たいに言わないでよ」



「あっ、ゴメン。 大きな仕事を扱う部署なんだな」



「知らないわ。 まずは、外食グループ立田との件をよろしくね」


 私は、ウインクした。



「優佳里さんに言われて断れる男はいないと思う」



「えっ、どういう意味?」



「素敵だって事さ」



「人妻を口説いちゃダメよ」


 私は、冗談を言った。初恋の人を前に緊張していたが、やっと打ち解けてきた。



「ところで、夕食は食べたの?」



「軽く済ませたわ」


 本当は、食べてなかったが気を使わせたくなくて嘘をついた。



「そうか。 でも、場所を変えよう!」 


 そう言うと、風間は私を違う部屋に案内した。

 そこは、以前夫と食事をした客室テーブルだった。さっき外で見た夜景が一望できた。



「すごく綺麗ね!」



「そうだろ。 この店の売りは、料理以外にこの景色もあるんだ。 凄いアドバンテージだと思ってる。 今は、午後9時までの営業だけど、深夜でもお客様が来ると思うんだ」



「私も、そう思うわ」



「そこで、食材を増やす必要があるんだよ」


 風間は、いきなり本題に入った。

 

 私は、雄弁に話す彼の姿に見入っていた。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る