第4話 昇格辞令

 私は、大学卒業後、大手食品会社の二見食品に入った。部署は営業部だが、別に営業をしてる訳ではない。簡単な事務を担当しており、いつも定時に帰っている。肩書きは事務主幹で、課長待遇だ。


 私の父は、この会社の大株主であり社長と親交がある。私がコネ入社なのは皆が知っており、役員さえ私に気を使っている。だから、風間の叔父の田川専務の事も、実は知っていた。


 夫と交際するまでは、私を射止めようと男性社員が口説いてきたが、私が迷惑そうな顔をすると、その社員はいつの間にか地方に飛ばされていた。

 こんなだから、私には心を許せる友人はいない。本音を言うと、この会社を辞めたいと思ってる。自覚はないが、私は恐れられる存在なのだ。



「井田主幹。 田川専務がお話があるそうです。 これから大丈夫ですか?」


 秘書課から連絡が来た。



「分かりました。 これから伺います」


 風間先輩の件で呼ばれたと思った。

 彼の事を考えると、心がウキウキしたが、夫の顔を思い出すと、後ろめたさが募り直ぐに打ち消した。



「失礼します」



「桜井 …。 いや違った、井田主幹、入ってください」


 田川専務は、人懐っこい笑顔で私を迎え入れた。



「甥の風間 涼介から聞いたんだが、井田さんは高校の後輩なんだって? 彼は、姉の息子なんだよ。 姉の夫は、大手外食グループ立田の社長をしているんだが、もし可能なら君に、その会社と大口取引が叶うように交渉してもらいたいんだ。 どうかな?」



「それは、営業をしろという事ですか? 私は、実家の父のコネで二見食品に入りましたが、知っていると思いますが、結婚の後、実家とは縁が切れた状態です。 今では、この会社を辞めるべきではと考えています」


 私は、自分の正直な気持ちを伝えた。その上で、この会社がどう動くか確かめたいと思った。



「入社の経緯はともかく、あなたはこの会社の重要な人材です。 当然お父上の件も含めての事ですが …。 その上で、この会社のために力を尽くしてほしいんです」



「経験がない私には、難しいと思いますが?」



「当然、必要なベテラン社員を付けます。 あなたは難関国立大学をご卒業されている。 お父上も主婦にするために、この会社に入れた訳でないはず」


 私は、田川専務の思いがけない言葉に心が動いた。父の立場を踏まえ、戦略的に動いているのだろう。コネを利用してでも、自分の力を試したくなった。



 田川専務は続けた。


「井田主幹は、涼介に一社員として働いていると言ったようだが、主幹のポストは課長待遇なんだから違うぞ。 卑下しないでほしい。 それから立田との交渉にあたり、今度は特命営業部の部長に昇格させたいと思ってる。 引き受けてくれるか?」



「はい。 私で良ければ頑張ります」


 答えは決まっていた。私は、本気で打ち込める仕事がしたかったのだ。



「早速、総務部に人員やフロアの配置について指示しておく。 辞令は一週間後だ。 頼むよ」


 田川専務は、私の肩を叩いた。

 訳が分からないうちに、私は部長職を引き受ける事になった。恐らく実家の父が仕組んだ事だと思うが、それであっても挑戦したいと思った。

 きっと、夫も賛成してくれるだろう。



 来週から忙しくなりそうだが、今日はいつも通り定時に帰った。相変わらず夫の帰宅は遅い。

 夜、10時を過ぎ夫が帰り、夕食を食べながら、来週、部長の昇格辞令が出る事を伝えた。



「優佳里はコネ入社と言うが、有名国立大学の経済学部を出ているんだ。 君の父さんは、キャリアを積ませたいんだと思うよ。 素直に考えて、良い話だと思う。 優佳里が選んで進む道なら、俺は大賛成さ!」


 夫は、私の事を真剣に考えてくれた。彼の深い愛情を感じた。



「ありがとう。 剛なら、そう言ってくれると思ったわ。 将来的には、剛の会社を支えられるようなキャリアを身につけたいわ」



「頼りにしてるよ。 大手でキャリアを積んで来てくれ!」


 剛は、いつもの笑顔で笑った。


 一週間後、部長の辞令があった。直属の課は一つだけだが、専務の命令により、他課からの応援も可能となった。


 配下となる特命課には10名の社員がいた。課長の伊藤 美穂は優秀な人間で、営業一課から引き抜かれた。

 30代前半の可愛いタイプの女性だが、顔に似合わず男勝りの性格で出世頭だった。



「初めまして、課長の伊藤と申します。 田川専務から、営業方針を指示されています。 まずは、外食グループ大手立田への営業ですが、実務は、私にお任せください。 部長には大局的な業務をお願いしたいです。 しかしながら  …」


 伊藤は、言葉に詰まった。



「どうかしたのですか?」



「実は、田川専務から外食グループ立田の社長へのアポイントを、井川部長に取ってもらうよう仰せつかりました。 お願いしてよろしいでしょうか?」


 伊藤は、申し訳無さそうな顔をした。



「分かりました。 私のネットワークからアポローチしてみます。 上手く行かない場合は、あなたに相談します」



「お願いします」


 伊藤は、深々と頭を下げた。


 私の脳裏に、風間社長の次男、涼介の顔が浮かんだ。夫がいて不謹慎な話であるが、初恋の相手に連絡できる理由ができて、嬉しくなる自分がいた。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る