第10話 妹様のメモ帳

 家中に響き渡る、俺の叫び。近所迷惑なレベルかもしれん。

 だが近所からのクレームなど、気にしていられない。そんな状況じゃない。


 6秒を数える間もなく反対側へ振り向き、イレヴタニアに背を向けた。


「なっ、何してんだよ!」


 180度ギュルンッッと回転し、彼女の肢体を視界に入れないようにする。

 しかし既に、手遅れではある。

 不意打ちの登場だったせいで、完全に見てしまった。


 しっとり濡れた銀色の髪も。俺と視線が交わる瑠璃色の瞳も。滑らかなラインを描く肩や鎖骨、中学時代の陽菜とは雪山、ほっそり引き締まった腰、小さなヘソ、更には一糸まとわぬ下半身も――。


 シミひとつない、真っ白なゲレンデを思わせる、芸術品にも匹敵する裸体。


 書籍や動画のじゃなく、『本物』は初めて見た。

 いや、小学校低学年の頃は陽菜と一緒に風呂に入っていたりしたから、厳密に言えば初めてではない、かもしれないけど……。

 いやいやいや、そういうレベルじゃなく……!


 バクバクと脈打つ、胸の鼓動。血液が沸騰し、心臓が口から飛び出しそうだ。


 しかし動揺と混乱で顔を真っ赤にする俺とは対照的に、イレヴタニアの声色はどこまでも淡々として、平常フラットだった。


「何、って……。サウナに入っていただけ」


 俺を『兄さんブラット』と呼ぶとはいえ、今日出会ったばかりの男であるはずだ。そんな相手に裸を見られたというのに、気にしている様子は全くない。


 というか、聞き逃せない単語が出てきた。


「サ、サウナ? 柏木家ウチに、サウナなんてないはずだぞ?」


「……兄さんが入院している間、お風呂場を改造した。扉を閉めて高温スチームが出るモードにすれば、室温90℃まで一気に上昇する」


「どんなシステムだよ! てか何してんだよ!? 改造!!?」


 彼女が全裸な理由は、風呂場でシャワーでも浴びていたのかと思ったが、どうやら個室サウナを楽しんでいたらしい。


 しかしいつの間に、そんな改造を……。


 よく分からんが、数百万の費用や長期間の工事とか、色々かかるんじゃないのか。


「10分入って、今は5分の休憩……。これを後2セット繰り返す。そうすると『整う』。……兄さんも、一緒に入る?」


「は、入らねぇよ!!」


 背中を向けているから正確には分からないが、たぶん今のイレヴタニアは無表情だだろう。平気な顔と声色で、とんでもないことを言い出す子だ。


「こ、今回のは事故だとして! 今後は、家の中を裸でウロウロするなよ!?」


「……どうして? 何か問題でも?」


「問題しかないだろ!」


「家族なんだし、ヤーは別に気にしないけど」


「俺が気にするのっ!!」


 妙に頑固ガンコだ。決して譲ろうとしない。


 そういや――父さんも、そして父さんの血を引いていないのに陽菜も、風呂上りには下着や薄着姿でウロウロするタイプの人間だった。ふと、そんなことを思い出した。

 流石に陽菜は中一の夏くらいで「恥じらいを持ちなさい」と母さんに注意され、以降はちゃんと着替えるようになったけど。


 ……一体、どうして。あの頃の日々を思い出すんだ。


 イレヴタニアは髪の毛も瞳の色も日本人離れしていて、絶対に陽菜じゃないのに。

 どうして俺は、彼女の言動の節々から『妹』を感じてしまうのだろうか。


「……実力行使で、兄さんをサウナに連れ込むこともできるけど」


 すると。イレヴタニアの声が、すぐ後ろから聞こえてきた。

 気配を殺し、俺が全く気付かないうちに、至近距離まで接近していたのだ。


「なッ……!?」


「この私に、背中を見せたのが敗因」


 そう言って――俺の腰へと細い腕を回し、背後から抱き着いてきた。

 未だ全身をタオルで隠そうともせず、生まれた姿のまま。


「ちょちょちょ、ちょーーーいッ!!!」


 汗なのかお湯なのか、しっとり濡れた身体で密着されて。

 背中には、六花リッカ以上の柔らかさと大きさを誇る、水風船や巨大マシュマロのようなが「むにゅぅうう……っ」と押し付けられる。


 俺は前方へと足を伸ばし、距離を取って逃れようとする。

 だが腰にガッチリ回されたイレヴタニアの両腕が、それを許さない。枝のような細腕なのに、ビクともしない。


「ちょっ……! チカラつよ! 意外と力つっよいな、イレヴタニア!?」


 こ、これ以上は、色々とヤバイ……っ!!


「……なんて、冗談」


 お互いに同じ方向を向いた、奇妙な綱引きみたいな力比べをしていると――イレヴタニアは、パッと腕を放してくれた。


「ぶへぇっ!」


 しかし急に解放されたせいで、前へ前へと逃れようとしていた俺は、前のめりに倒れてしまう。


 その結果、顔面から廊下の床へダイブした格好になった。痛い。鼻メッチャ痛い。


「……でもサウナに入りたくなったら、いつでも言って。一緒に汗だくになろうね兄さんブラット。声出るくらい気持ち良いよ」


 大人しい声色トーンでサウナに誘ってくれるが、微妙にを持たせた言葉であるかのように感じた。他人が聞いたら誤解しそうな、変な言い方をするんじゃない。


 だがそんな抗議をしたら、また彼女のペースに呑まれそうで――再びサウナに入っていくイレヴタニアと別れ、仕方なく私室に戻って着替えることにした。




***




「はぁああ~……っ。このままじゃ、俺のメンタルが持たないって……」


 二階に上がって、私室へと戻り。


 寿珠ジュジュにぶっかけられた牛乳と、イレヴタニアの汗で濡れた学生服を脱ぐ。

 ウエットティッシュで拭き取り、とりあえず消臭剤を吹きかける。

 応急処置はしたが、もしにおうようなら、クリーニング行きだな。


「……ん?」


 すると――制服のポケットの中に、『何か』が入っていることに気付いた。


 カサリと聞こえた、紙のような音。


 俺は買い物のレシートなどは、釣銭と一緒に財布に入れてしまう派だ。

 そもそもポケットこんなところに、何か紙を入れた覚えもない。


「なんだ……?」


 不思議に思いつつ、ポケットからを取り出す。

 それはピンク色の小さなメモ用紙で、メモ帳から一枚だけビリッと破り取り、二つ折りにした感じだった。


 その小さなメモを、開いてみると――。



「なッ……!?」



 それは、『本物の陽菜』からのメッセージだった。




***




 濡れた制服からラフなジャージ姿に着替え、リビングへ向かい、10人の妹達との夕飯を終えて。


 思い返せば、実に騒がしい晩御飯だった。俺を含め、四人家族が突然『十一人家族』になったのだから、当然かもしれないが。


 今朝と違い、テーブルの上には全員同じ夕飯のメニュー親子丼が並べられた。


 一姫イツキの「いただきます!」という号令から始まり、五子コーコの「アタシはカツ丼が好きかな~」という、作り手に対してやや失礼な発言から、『好きなどんぶり料理談義』に花が咲き。

 八千枝ヤチエの「……親子丼ってさ……人間で例えると母親と胎児――」の発言を寿珠ジュジュが「やめろや!!」と鋭いツッコミで遮ったのが、本日の名場面ハイライトだった。


 だが、そんな妹達のワイワイガヤガヤした会話を、俺はほとんど聞いていなかった。


 夕飯を終えて私室に戻り、雛森先生からの課題を半分ほど消化したところで諦め。

 風呂に入り、歯を磨き、温めた『まろやか牛乳』を飲み干し、こうしてベッドの中に入っても。


 俺の心中は、のことでいっぱいだった。


 ベッドで仰向けになりながら、ピンク色の紙きれを再び広げる。

 青いカーテンの隙間から差し込む、満月の淡い光を頼りにして。丸っこい文字を凝視する。


 そこには――。




『新也お兄ちゃんへ。


急に妹が10人に増えてビックリしていると思うけど、みんな良い子だから心配しないでね。

あと、まろやか牛乳の飲みすぎには気を付けるように。それと窓から逃げるのは危ないので、もうしないでください。


陽菜より』




 そこに書かれていた文章は、間違いなく『陽菜』の文字だった。


 小学や中学の頃は、年下の陽菜の勉強を見てやったりしていたから、よく覚えている。こればかりは、見間違うはずがない。


 加えて、突然現れた10人の妹達や、窓から道路へ出たことについて言及している。

 事前に書き置きしたものじゃない。今朝の出来事が終わってから、書かれた内容だ。


「陽菜は……この家にいる」


 確かめるように、自分自身に言い聞かせるかのように、静かな部屋の中で呟く。


 だが、一体誰が? それに本人がいるなら、どうして黙っている? 仮に本人がいるとして、じゃあそれ以外の9人は何者だ?


 とはいえ、間違いなく『陽菜』が近くにいることは分かった。大きな前進だろう。


「……でも、いつの間に……」


 分からないのは、このメモを俺の制服ポケットに入れたか、ということ。朝に着替えた段階では、入っていなかったはず。

 学校の中では、妹達との接触を避けていた。可能だとすれば、家に帰ってきてからだろう。


 玄関先でコーコがギャル全開でからかってきた時、かなり近い距離だった。

 オタクなリッカとぶつかった瞬間、ポケットの中に入れられたのかもしれない。

 俺から牛乳をひったくったジュジュも、隙を見てメモ用紙をねじ込むことは可能。

 全裸だったけど、イレヴタニアには抱きつかれ、他の誰よりも密着した。


 どこのタイミングだ? 誰が入れた? このメモを渡してきた子が、陽菜本人なのか?


 ぐるぐるぐるぐると、思考を巡らせるが――。


「……分っかんね……」


 本物はいるみたいだが、10人のうち誰が本人なのかまでは判断つかない。


 名探偵なら、とっくに解決しているのかもしれないけど。生憎俺は、進級試験すら突破できるか怪しい凡人なんだ。


 もう寝よう。今日は、とてつもなく疲れた。それに明日からも、騒々しい日常が待っているかもしれない。

 今日一日で何度も何度も6秒を数え、このままではどんどん疲弊していってしまう。


 激動の登校初日の全てを、一旦は頭の片隅に押し退けて。

 6秒ではなく羊でも100頭数えて、眠りに落ちようかと――。


「お兄ちゃーん?」


 その矢先。

 部屋の扉がコンコンとノックされ、許可を出す前にイツキが入ってきた。


 ピンク色のパジャマを着て、今は髪をサイドテールにまとめず、茶色い髪を自然に下ろしている。

 そのモードだと少し大人っぽいというか――最初から活発で可愛らしい子なんだけど――凄く清楚な美少女に見えて、ドキリとしてしまう。


「ど、どうした? 一姫」


 咄嗟にメモ用紙を枕の下に隠して、イツキの方を向く。

 髪色と、健やかに育った胸部以外は、やはり陽菜と似通っている。

 もしかして彼女が、メモを渡してきた『本物の陽菜』なのだろうか。


「今、忙しかった? それとも寝るところ?」


「ちょうど、羊100頭を忙しく数えるところだったよ」


「なぁんだ、じゃあ良かった!」


「良かった? 何が?」


 イツキは満面の笑みを浮かべ、後ろ手に隠していたピンク色の枕を取り出した。

 あの大きな枕に頭を乗せて、穏やかに羊を100匹数えたら、良い夢が見られそうだ。

 貸してくれるのかな? 今日はもう寝るだけだ。6秒を数えるのは終了して、羊でも――。



「お兄ちゃんがまだ寝てなくて良かった~。……今夜は、私と一緒に寝よっか!」



 6秒、カウント開始ィィイ!!!

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