神聖な契約

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神聖な契約

 父は母の目を見て嘘をつくことができない。


 それを最初に知ったのは私が小学校4年生のころだった。

 私はこの年頃の女の子がするように、両親が結婚した馴れ初めを母に聞いたことがあった。両親は見合い結婚であった。子供が聞いて胸躍らせるような出来事は何もなかった。

 その日の夜、少しお酒の入った母は、家族の揃った食卓で、このようなことを言い出した。

「お父さんは、私の目を見て嘘をつけないの」

父は黙って食事をしていた。食後の私は食卓で宿題でもしていたのだろう。半信半疑の私を見て、少し赤い顔の母は父にこう尋ねた。

「へそくりとかあったりする?」

「ないね」

父は俯いてそう言った。

「目を見て言って」

「やだ」

母は食事中の父の肩にもたれかかり、顎をつまみ、その顔を自分の方へと向けた。車の運転前に母がする、バックミラーの調整のようだと私は思った。

「へそくりとかあったりする?」繰り返された質問に、父は黙り込んでしまった。「答えて」

「この聞き方はずるいと思うな」

父は困った顔をしてそう言った。

「あるんだ」

「まあ、ねえ」

「お給料、銀行振込なのに?」

「控除されてる項目によっては、年末にキャッシュバックがあってね」

「それがへそくりなんだ」

「まあ、ねえ」

「どこにあるの」

「会社のロッカーの中」

母親はこれ以上ないほどの笑顔を娘に向けて見せた。そのへそくりがどうなったかは、子供の頃の私にはわからない。


 私は、これは魔法ではなく、どちらかというと呪いの類だと思った。もちろん、魔法や呪いを信じていたわけではない。事実は、父親が母親に対して、おそらく結婚を申し込んだタイミングで、そのようなことを約束してしまったのだろう。つまりそれは約束を守ろうとするという話であり、父の意志にかかる事柄だったのだ。


 次にこの約束が実行されたのを見たのは、高校3年生の冬だった。

 父が浮気をして、母がそれを問い詰めたのだ。

 父はもてるタイプではなかった。それでも職場の人と不倫をして、母はそれに気が付いた。そして父に対してすごい剣幕で責め立てたのだった。

「目を見て答えて。私の目を。いつから浮気してたの?」

「いや、一回だけ、一緒に」

「目を見なさい」

「去年の夏から」

「何度くらい私を裏切ったの?」

「7回、かな。そのくらい」

「月に一回のペース」

「はい」

「目を見て」

「もっと多いかも。夏以降、10回くらい、かな」

正直、受験勉強中の子供のいないところでやって欲しかった。母は当然怒り、物を投げ散らかした。近所に聞こえてしまうような食器が割れる音が響き、父はしょんぼりとして的になるだけだった。私は「うるさい」と二人に吐き捨てて自分の部屋に閉じこもり、ヘッドホンでラジオを聴きながら受験勉強の追い込みをかけるのだった。

 離婚を予感させるような両親の喧嘩を見たのはこれが初めてだった。それでも、私はほどよく大人であり、大学の費用さえ何とかなれば、両親の人生は両親が決めればいいと思っていた。

 一方で、私は英語の問題集を解きつつ、両親はこの件で離婚しないだろうとも感じていた。父は母を浮気という形で裏切ったが、根本の約束を破ってはいなかった。父は母の目を見て嘘はつかなかった。少なくとも傍目にはそうだった。実は夏以降20回は相手と同衾したのかもしれないが、そこは重要ではないように思われた。


 次の日、割れた何かは片づけられ、母はむしろ機嫌がよかった。父はそうでもなかったが、普段の父がどんな機嫌だったのか、娘の私にはそれほど興味がなかったので普段とおりなのかすらわからなかった。

 離婚の話題は一切出なかった。実際、両親は離婚せず、夫婦仲は良好に見えた。

 この件について、私は、母の寛容さよりも、むしろ父のしたたかさに感心した。許されるためには事前の地道な地ならしが必要なのだ。それがあれば許す方もより許しやすくなるのだ。そう思った。


 私は親元を離れて大学に進学した。

 3度目は、思った以上に長い夏休みに、実家に帰っていたときに起こった。

 母の父母が、高速バスの事故で亡くなった。当時全国ニュースとなり、大きな話題となった事故である。その一報を聞いたのが、たまたま自宅にいた父だった。

 仕事から帰ってきた母に父は、その目を見て、母の両親の突然の死を伝えた。母はもちろん問い返すことなどせず、それが絶対の真実であることを確信して泣いて崩れ、本当に崩れたようになってしまい、立ち上がることができないまま床につっぷして泣いた。そんな母を見たのは初めてだった。私は母の肩を抱きしめて涙をこぼした父を見て、父の涙を見たのは初めてであることに気が付いた。私はそして、母のその姿にではなく、むしろ父のその涙に誘われて涙をこぼした。祖父母との素敵な思い出がないわけではなかったし、その事故死は悲しかったが、私の涙腺は父の涙に合わせてその涙を流すことを選んだようだった。


 大学2年生となり、私は何となく文系の学部を選んだ。

 彼と出会ったのはもっと前だろうけど覚えていない。ボサボサの髪、皺だらけのシャツ、指紋だらけの眼鏡という印象だった。意識したのは2年生のとき。具体的には、彼は私と同学年なのだけど、酒を合法的に飲めるようになって間もなくの飲み会のことだった。

 チェーン店の居酒屋で酒盛りを始め、時間が経つと、比較的真面目な学生から学問とか世の中とか人生についての問いが発せられることがあった。

 そのときは、「基本的人権というが、これは西洋の想像力が生んだ虚構であって、現実に根拠があるものではない。聖書や神話は作られたものであり、自然とは別物だ。だからアジアには基本的人権などという思想は根づかない。時代や地域を乗り越えることができない思想は、言葉の字義とおり普遍性があるとは言えず、このような思想を後生大事に取り扱う必要がいまの日本にあるのだろうか」というものだった。さすが大学生ともなると、虚構とか字義とかいう、文字では見たことがあっても耳にする機会はそんなにない言葉が本当に口からポンポン出るものだと感心した。

 これに答えたのが、普段から口数の多い印象の彼だった。

「虚構であることは大いに結構じゃなかろうか。社会思想のつまるところの目的は人間の幸福だ。人を幸福にするために、人は人権概念をつくり、法をつくり、社会制度をつくってきたのではなかったか。デラシネ(根無し草)であることを恐れてはならない。近代人はみんなデラシネだ。根拠などなくても、多くの悲惨なことを体験した先人たちが、その叡智をもって基本的人権を生んだのだから、我々はそれを受け取ればいい。より人を幸福にできる虚構があれば話は別だが、そんなものはないだろう?」

本当はこの10倍は喋っていたが、覚えていない。

「虚構でもいいなんてのは駄目だよ。嘘でもいいと言っているようなもんだ」

「嘘でもいいんだよ。人が幸せであればさ」と、彼。飲み仲間は酒に酔った勢いでブーイング。私は感心して聞いていた。彼は反論する。

「そんなに言うがね、お前ら、虚構が嫌って言うんなら、フィクションが駄目って言うんならね、財布の中の紙切れと金属片を全部僕に頂戴よ。それこそ何の価値もないのに価値があると見せかけているフィクションの賜物じゃないか。それは兌換紙幣じゃないんだぞもう」

「それには信用がある!」

誰かがそう言った。それを聞いて、それまで寝たふりをしていた教授がばっと顔を上げ、

「信用こそ根拠がなーい!」

と叫んだところで私は酔いつぶれ、記憶がなくなった。


 目が覚めて、財布の中の信用の賜物は無事であり、私と彼は同じ講義を受けることが多くなり、行動を共にするようになった。ラジオの趣味や音楽の趣味が合い、やがて付き合い、肌を重ね、自他ともに惚れた腫れたと認める仲となった。

 

 あるとき、私はベットの中で、父は母の目を見て嘘をつけないという話を彼にした。へそくりの話と浮気の話をした。家族の恥部の披露が親密さの証であるように。

 彼は隣に座り、片手に電子辞書を構え、全裸でロールズの『正義論』を原著で読んでいた。それは当時の流行書だった。彼は思いのほかこの話に喰いついた。

「結婚式でさ、神父や牧師がさ、新郎新婦に対して、病めるときも健やかなるときも、喜びのときも悲しみのときも、富めるときも貧しいときも、死が二人を別つまで、愛することを誓いますかって口上を述べるじゃない。あれってさ、内容って結構自由度が高いらしくて、別に聖書にばっちり由来があるわけでもないんだよね。いや、ローマ人への手紙とかにそれっぽいことは書かれてあるけどさ、何なら新郎新婦が好き勝手に決めてもいいらしいんだよね。日本人は別に神様信じてないから、このときの誓いますって誓いは、式に参加している人たちに向けた約束なんだろうけど、君の両親のそれも、この手の約束に似ていると思うね。でもさ、日本人は愛するって簡単に言うけど、本当はわかってないと思うんだよね。日本人は縁とか馴染みとかそういう言葉の方が腑に落ちるんじゃないかな。神の愛とか言われてすんなりわかる日本人なんているのかね。その点、君のお父さんは素晴らしいね。約束事が具体的だもの。オリジナリティもあるし、特殊な条件下で発動するのが格好いいし、本気なんだと思うよね。言うなれば独自の神聖な契約だよね」

「神聖な契約ねえ」

私は彼のいつもどおりの口ぶりにうっとりしつつ、おうむ返しにそう言った。

「神聖とは侵しちゃいけないってことでしょ。その契約は片務契約だから、侵せるのは君のお父さん自身だけだ。契約を破ってはいけない。自分がそう決めたのだから」

「神聖であろうとそうでなかろうと、契約は破っちゃいけない」

「でも、破ろうと思えば破れるんだよ。だから、人間には神聖さが必要なんだよ。形容動詞が、重みが必要なんだよ。その方がきっと幸福だ」


 私の知る限り、あの夏以来、父が母の目を見て喋るという儀式を行った様子はない。例えば今後、母にがんが見つかり、父がそれを母に隠す場面があったとする。母ならきっと「私の目を見て本当の診断名を言って」と父を問い詰めるだろう。でも、父は泣いて母の目を見れないだろう。そして母には、いや誰にだってそれで十分だろう。言葉より雄弁なものはいくらでもある。そんなことは無いに越したことはないのだけれど。そもそも、この儀式が求められる状況自体、無い方がいいのだ。

 いや、でも、これも例えばの話だけど、父が自身の死の間際、病床で、母の目を見て、「本当に自分は幸福だった」と言ってくれれば、母の人生の大抵は肯定されるのではなかろうか。いやいや、父の内心はわからない。逆に父が「不幸だった」と言えばどうなるだろう。そんな呪いを残して人は死ねるものだろうか。

 どちらにしろ、それは私の両親の人生だ。私の人生の話をしよう。


 大学4年生の冬。私は彼からプロポーズされ、それを受けた。

 寝ぐせのあった彼の髪の毛は常に整えられ、服にはアイロンがしっかりとかけられていた。眼鏡には辛うじて指紋が残っていたが、彼は社会性を手に入れていた。私はそれをつまらないと思っていた。でも、彼に社会性を与えたのは恐らく私なのだ。

 彼は在学中に公務員試験を受け、地元の市役所勤務が早々に決まっていた。私も同じ役所を目指したけれど、最終面接で落ちてしまった。それでも隣の市で公務員の職を得た。私はてっきり、彼は大学に残って学問を続けるか、駅前で辻説法でもするのかと思っていた。それがこんなことになるなんて。


 私はプロポーズを受けた際、「私の目を見て嘘はつかないと約束してくれる?」と尋ねた。彼は、

「フィクションは人を幸福にすることがあるから、約束はできない。それに、その約束が実際に嘘をつく能力を奪うわけでもない。君のお父さんも、お母さんの目を見て嘘をついたことがあったかもしれない。それでも君のお母さんはこの人は嘘をついていないと信じただろう。大事なのはその約束よりも、相手を信じられるかどうかだと思う」

と答えた。彼なりに、彼らしい、あらかじめしっかりと用意してくれていた回答だと思った。私はそれを誠実さの表れと受け取った。神聖さは父には必要だったけれど、彼には必要ないのだった。


 卒業後、私たちは隣の市へと引っ越して同居を始めた。彼は通勤時間がかかると不満げだった。大量の本を実家に置いてきたことも不満のようであった。お金を稼いでもっといいところに引っ越そうと、私は前向きなことを言った。

 お金は確かに不足していた。新婚旅行は卒業旅行と一緒くたにした。私の左手の薬指には結婚指輪がはまっていたが、婚約指輪は後日となった。結婚式もしていないし、する予定もない。写真を数枚撮って良しとした。

「もしもさ」

と私は言った。彼は荷をほどきつつ、「うん」と返事をした。

「結婚式をしてたらさ、病めるときも健やかなるときも、の誓いの言葉があるじゃん、あれに誓いますって約束できた?」

「そもそも会次第からそのイベントは外しておくね」

「するとすれば?」

「それなら約束するよ。セレモニーに主役が水を差すようなことはしないって」

私は彼の中で育まれている社会性に感心した。そしてこのとき、ふと、この誓いの言葉が、新郎新婦の双方に対して誓わせるものであることに気が付いた。逆に言うと、父のあの神聖な契約は、そうだ、彼も以前に言っていたが、父だけに課せられた片務契約であることに気が付いた。母は別に嘘をつく人ではないが、母は父の目を見て嘘をついても約束を破ったことにはならないのだ。いや、父に課せられた?課せたのは父自身だ。父がそれを必要としたのだ。

 そう思うと私は急に恥ずかしくなった。私は荷ほどきを放棄して立ち上がり、窓の外を眺めた。決定的な局面で口から出る言葉は重要であり、誠実であるべきだ。私はこの結婚に際して、父ほどには、そして彼ほどには誠実でないことに気が付いた。あんなに考える時間があり、そして実際に考えていたというのに。

「ちょっとちょっと」

「もしかして結婚式がしたかった?」

彼は電子レンジを抱えてそう言った。そんなことはどうでもいいよ。

「もう一回、結婚指輪をはめて欲しい。ここで、この格好で」

そう言って私は自分の指から指輪をねじ取った。彼は変なことを言い出す私のことが好きなので、電子レンジを冷蔵庫の上に置き、何も言わず、嬉しそうに指輪を取った。そして私の手を取った。

 私の左手の薬指に、改めて指輪が差し込まれた。その指輪にはまだ私の体温が残っていた。彼は私を見つめ、私は彼を見つめていた。そして、

「私はあなたの目を見て嘘はつかないと約束します」

と私は言った。私の人生には神聖な契約が必要だ。いや、正確に言うと、私の人生は、神聖な契約を求めている。

 彼は予測していたように黙って頷き、私にキスをした。

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