『ラプラスの魔』

 十数度目の、馬車の減速。


「恨まないでくださいね」

 係の男性が、ボクをそっと荷台から下ろす。


 しばらく座ってたのもあるけれど、そもそもボクの足の腱はズタズタに裂かれて治ってないし、片目は見えないし、右手がないから上手く手をつけないしで、結果として放り出されるような絵面になってしまった。


「ぐぇ……」

 2回くらい回転して、ボクは木々に狭められた青空を見上げる。


 情けなくて涙が出てきた。


 にゃあ、と聴き慣れない音。鳴き声……に近いだろう。

 それよりも近く、別の獣の唸り声。足音が轟き、木々が揺れる。


「……やだ……」

 その大きさは、先ほどボクを置き去りにした馬車(馬を含む)より長く、背を逸らし見上げるほど高い。ウロコイヌという種族の、名の通り外皮が鱗殻に覆われた魔物だ。俊敏かつ硬く、獰猛で賢く、貪欲で肉食。


「……死にたくない」

 意志とは裏腹に、ウロコイヌに見下ろされたボクは、そのまま動けなくなってしまった。


「動け。動けよ、ボク!」

 大声を上げたからか、魔物が少したじろいだように見えた。威圧が緩んだのか、はたまた別の理由からか、ボクは座り込んだままながら身を翻し、這って茂みに分け入ることができた。


「■■!」

 魔獣が短く吠える。


 続いて、にゃあ、と鳴く別の声。


 どうする。どうしたらいい――ボクは息を押し殺して、ひたすら考えを巡らせる。さっき無理やり地面を掻いたからか、右手の断面から血が滲んできている。めちゃくちゃ痛い……けど、死ぬとなったらもっと痛いはずだ。それはいやだ。本当にいやだ!


 這って進む。手頃な岩があったので、それを手がかりになんとか立ち上がり、足を引き摺りながらさらに逃げ進む。


 どしん、だしん、と追い付いてくる足音。距離感の変わらない、何かの鳴き声。


 くそ! 這った方が速い!

「這った方が速い!」

 声に出た。


 それでバランスを崩したボクは、また地面に体を預けることとなった。転んだ拍子に眼帯が外れる。


「■■■■ーッ!」

 一際大きい、ウロコイヌの咆哮。音による震えだけではなく、言うならプレッシャーによって、空気が震撼した。


「――――!」

 あまり圧力に胃がひっくり返りそうに、


 ……なんだこれ。


 見えないはずの左目が、見てないはずの景色を視ている――。


 ナイフを手にした少年だった。彼はウロコイヌと対峙していて、少し唇を揺らすと、言葉の通じないはずの魔物がそれに従ったのだ。


 ボクはただ、それをなぞってみる。


「【失せろ】」


「■■■」

 ウロコイヌはその巨体を翻し、ゆっくりと向こうの方へ去っていった。


「にゃあ」

 背後から、その声。


「【お前は、誰だ】 ⁉︎」

「ム……おっと……あぁ、もう、『統一言語論』かよ。マオかい? マオはマオだよ。猫の庭(ここ)の主。今はご主人のおつかい中でね。あとのことは、そう、キミ次第さ」


 それは、黒いワンピースを着た長い黒髪の少女だった。癖っ毛の妙で獣耳が生えているように見える。ワンピースからは白く細い手足がやや短く伸び、見たことない素材でできたサンダルを履いていた。


「ねぇ、」

 金色の瞳が、じろっとボクを見定める。


「【失せ――、う……けほ、ゲホッ……ォエ……」

 喉が焼けるように熱い! 咳き込むと血混じりの痰が吐き出された。なんで? 原因を探るため左目で視るが……これもだめだった。無くなった目玉がまた潰れるような激痛が走り、中断を余儀なくされる。


「……? 『統一言語論』じゃないのカナ? ふんふん……ふぅん……。ねぇ、お姉さん」


 マオちゃんが、猫撫で声でボクの背にのしかかる。……猫撫で声ってなんだよ。猫の庭の猫? なのか? あぁでもなんかめっちゃ柑橘系のいい匂いするし気にしなくていいや。


「生きてマオの『庭』から出たかったら、ご主人に会ってよ。ね、お願い」

 マオちゃんがあざとく小首を傾げたのを見て、ボクは意識を失った。

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