spring
僕らの間に変わらない関係が戻ってきた。それは尊く、何物にも代えがたい強固な絆だ。
きっと、さっきの一連のやり取りは見る人から見れば綺麗ごとの集合に見えるんだろう。光さんに真っ当な罰が与えられていないと、非難の声を上げる人もいるんだろうと思う。けれど、僕たちはそれで納得したんだ。一度は劣等感によって瓦解していた関係性が、才能の回帰という奇跡を経験して復活したんだ。だから、これで良いんだ。綺麗ごとの集合って言うのが、僕らにとって丁度良い話のオチになったんだと思う。
だから、これは誰にも邪魔されることのない貴い話となるんだ。
けれど、僕らには、いや僕の個人的な話でまだ解決しなければいけない問題がある。
これはただ純粋な僕の問題でしかない。
僕自身の恋に関係することだ。
心地よい空気も良い。そして、この程よい関係を続けることもまた僕自身を正当化することだ。だけれど、それでは駄目だ。それは今までの僕と何ら変わらない。人に依存するのではなく、僕は僕の手で僕にしか築けない関係を手に入れるんだ。
ただ、それは虚しいことに純粋な関係ではない。
僕が欲しているのは、二重性がある関係だから。
そして、それは口に出してはいけない爛れた関係なのだから。
「ねえ、潮。それで私の恋は成就するの?」
「そうだ、忘れてたけど潮は姉ちゃんとどうしたいんだい?」
全員が床に腰を下ろして、暫し、肉体的な疲労を忘れて下らない談笑がある程度の落ち着きを取り戻したころ、光さんと叶さんは唐突に僕が解決しようとしていた問題を僕に問いかけてきた。
正直、僕はこの問いかけに関する答えを持っている。けれど、これを言った瞬間、僕は僕に対して好意を持ってくれている二人を裏切ることになってしまう。
「光さんとですか……」
だから、僕はこうして口籠ってしまう。
不屈の意思をもってして解決しなければいけないはずの問題なのにもかかわらず、自分の本心を知っているのにもかかわらず、僕は言葉を詰まらせる。それは僕が、僕の臆病に従っているからだ。
「そう、潮は私をどうしたんだい?」
臆病な自尊心に悩まされる僕を知ってか知らずか、叶さんは僕に体をグイっと近づける。女性特有の良い香りが僕の肉欲を誘うと同時に、もう一人の愛すべき人に対する罪悪感を僕に招く。一様に僕は自分の中の善意に脅かされる。
「僕は……」
善意と本能とが闘争する中で、僕はあの夜の艶やかな光さんを思い起こす。
同時に今朝の叶さんの純粋な愛も思い起こされる。
そして、今、僕は光さんの興味に満ちた顔を望んでいる。
僕は、どうやって生きればいいのだろうか?
いや、別に二極化した考えを持たなくても良いんだ。
そうだ、外村が言っていたことを思い出せ。
免罪符はそれで良いんだ。
「僕は、いえ、すいません答えは待ってください。冬までに答えは出します。ですから、どうか待ってください」
明白な答えを持っているのにもかかわらず、僕は二人に頭を下げる。
今、二人がどういった表情を浮かべているのかは分からない。僕に失望しているのか、それとも決めきれない僕を恨んでいるか、もしくは煮え切らない結末にもどかしさを覚えているか観測できないから僕には分からない。
「松野、煮え切らない答えはどうかと思うぜ?」
「うるさいな。こっちだって混乱してるんだよ」
「朴念仁が」
「お前に言われたくないよ」
異性のことは分からないけれど、外村がどういった顔をしているかは容易に想像がついた。
ニマニマと笑って僕の苦悩を笑っている様が、ありありと脳裏に浮かんでくる。
けれど、今は野郎のことはどうでも良い。専念しなければいけないのは、二人の感情だ。二人の感情を想像して、今、この場における最適感を僕は見つけなければならない。
「ふーん、そっか。なら、待ってるよ。いつでも待ってるさ」
「こういうのは早く言った方が良いよ。けど、本人がそう言っている以上仕方ないことか」
ただ、僕が最適解を見つけるよりも先に光さんと叶さんは話題を切り上げてくれた。
まさかの幸運に僕は顔を上げて、二人の顔を見つめる。
光さんは年甲斐もなく頬を赤らめて乙女のように僕を見て微笑んでいる、叶さんは口先を尖らせて眉間に皴を寄せながら明らかに不快感を僕に示している。そして、外村は僕の想像通りの笑みを浮かべている。無性に腹が立つけれど、顔が良いせいで怒り切れないことが腹立たしい。
「あっ、そうだ。姉ちゃん、僕も姉ちゃんの絵画教室で働かせてよ」
自分の初めてを捧げたのにもかかわらず勿体ぶる僕に対して、憎しみに近い感情を抱いているであろう叶さんは、その憎しみから一時でも解放されたいがためか、唐突に光さんの声をかける。頬を赤らめていた光さんは、唐突でありながら以前の叶さんから発せられることは無かっただろう提案に口を大きく開けて驚いている。外村もまた同様に驚いている。
二人の反応に、叶さんは首を傾げる。自分の言ったことが、それまでの自分とどれだけ乖離しているのか分かっていないらしい。だからか、純粋に首を傾げる仕草が可愛らしい。
「いや、良いけど、あんた本気で言ってるの?」
「本気だよ。僕は人と関わり合って、僕自身の芸術をより深めなければいけない。そして、人をこれ以上傷つけないための精神を得なきゃいけない。僕が我が儘に生きる時間は終わったんだよ。それに姉ちゃんたち以外の人たちとも話してみたしね」
切実に自分の目的を叶さんは伝えた。
光さんもその純粋な声音に納得すると、品の無い顔を取り下げて、顎先に指をあてがって考え始める。そして、結論が出たのかこくりと小さく頷くと叶さんを真っすぐと見つめる。
「私のところで働いても良いよ」
「本当に! ありがとう、姉ちゃん!」
叶さんは光さんから許しを告げられると無邪気にはしゃいだ。
「けど、やるからには仕事をしてもらうから覚悟しておきなさいよ。それと自分のための芸術じゃなくて、人の芸術に力を貸すための仕事だって言うのを努々忘れないこと。あと、自分の仕事が入ったらそっちを優先すること。これが条件。それでも、良いならあんたを雇ってあげる」
光さんは腕を組みながら、絵画教室の社長として叶さんの条件を提示した。
「分かってるよ。僕もそこまで馬鹿じゃない」
「なら、問題ないよ。それと、叶の指導員として外村も入ってくれないかな? どうせ燻ってるんだから、暇でしょ」
「失礼ですね。けど、まあ、本当のことなんでよろしくお願いします」
「素直でよろしい。それじゃあ、そろそろ帰ろうかな。私も仕事があるからさ」
新しい従業員を二人も獲得した光さんは、満足気な笑みを浮かべると立ち上がった。同様にして外村も立ち上がる。
どうやら、この楽しい会はここまでらしい。
「玄関まで送っていくよ」
そして、叶さんもまた立ち上がる。
「ありがと。それじゃあ、行こうか」
「潮はここで寝てて良いよ。疲れてるだろうしね」
「ありがとうございます。では、お言葉に甘えて……」
以前では聞くことも出来なかった優しい叶さんの言葉に、甘えて僕は再び横になって目を瞑る。
階段を下りる三人の足音と楽し気な会話が、リズミカルに耳をくすぐる。
窓から差し込む心地よい麗らかな春の日差しは、心地よく僕の体を包み込む。
眠気が徐々に僕の体に染み渡り、意識は遠のいて行く。
心地よい春の一日が、今終わって、今始まる。
だから、これからの楽しくて美しい日々に向けて今はゆっくりと体を休めよう……。
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