sunshine

「私が潮のことを好きになったのは、私が大学三年の時だったかな。そう、潮が大学一年の時だね。あの時、私は傷ついていたんだ。まあ、理由は言わなくてもわかるよね、叶、潮」


 寂しさに満ち溢れた視線を光さんは僕らに向ける。

 そして、僕らは頷く。

 だって、それは叶さんの罪なのだから。


「それで、まあ、その時の私は自暴自棄だったんだよ。好きだった絵も全く手がつかなくて、毎日毎日バイトをして、紫に行って酒を飲んで何の生産性もない日々を送ってたんだ。鬱屈とした日々だったよ。どれだけ絵を描いても弟の方が評価されるし、どれだけ知識を蓄えても圧倒的なセンスの前では灰燼に帰すからね。けど、だからと言って絵を諦めることは出来なかったんだ。そのくらい私は絵が好きらしい。随分と素晴らしいことさ」


 自らを嘲るように光さんは、乾いた笑みをこぼす。


「今となっては確かに素晴らしいことだけど、絵を諦めきれない底意地の悪さは私を酷く傷つけた。好きだけれど上達しない。好きだけれど弟の他、誰も褒めてくれない。そんな現実が私を突き刺したんだよ。それで、潮と出会った日も、秋の学園祭の日も鬱屈として退屈な感情を抱きながらぶらぶらと歩いていたわけさ」


 そっと光さんは僕に微笑む。

 光さんの微笑は、昔の僕を思い出させる。懐かしい冷たい秋風と、自信をすっかり無くして空虚な心持を抱いていた過去の自分が脳裏にはっきりと浮かび上がった。

 けれど、昔の僕が見ていた光さんはやっぱり今の印象と変わらず、朗らかな美しさを持っていたように思える。今現在、光さんが言っているようなうらぶれた様子は一切見えなかった。それどころか妙に元気で、妙に明るい変だけれど美人な先輩の像しか思い浮かばない。白いトレンチコートを着た長い黒髪をたなびかせる当時の僕にとって、たった一人の理解者の像しか思い浮かばない。


「サークルの手伝いを終えて、家に帰ろうと思ったとき、潮に出会ったんだ。工芸棟と彫刻棟の間にあるベンチに座って、学園祭なのにもかかわらずスケッチブックと鉛筆をもって、必死に人をデッサンしている潮に出会ったんだよ」


 確かにあの学園祭の日、僕はスケッチブックをもって家を出た。

 多くの人が来る学園祭なら存分に人物画を練習できると思ったからだ。もっとも、僕は満足な人物画を描くことは出来なかった。必死に描いたけれど結局出来上がったスケッチは、入試用のスケッチと同じような平坦なスケッチだけだった。


「私は運命だと思ったよ。あの時、潮が目に宿していた光は私にとって見慣れた光だったからね。というか私と同じものだったからさ。自信が無くて、どれだけ練習しても上達せず、センスによってねじ伏せられる哀れな芸術家の目をしていたんだ。だから、私は潮に声をかけた。そして、潮の名前と声を知って、連絡先を交換した。一目惚れだったんだろうね。もしくは、傷を舐め合いたかったのか……」


 学園祭の日、確か十五時頃、光さんは僕に声をかけてくれた。

 そして、僕のスケッチを見て平凡だと言った。

 初めてなんて失礼な女性なんだと思った。けれど、話している内に、本気で僕のことを想って平凡だという評価を下してくれたということが分かった。嬉しさと悔しさが半分混じり合った感情をあの時、僕は抱いた。

 けれど、同時に光さんともっと話してみたいとも思った。この人と話して、自分の芸術を完成させたいと思った。

 だから僕は光さんと連絡先を交換した。

 外村以来更新されなかった連絡先が、更新されたことに喜んだ。


「それで私たちは日々関わり合った。芸術に関して語り合ったし、表現の限界や上達の限界、そして天才への嫉妬とかね。まあ、いわゆる愚痴だね。そう言っている内に、徐々に私の心は潮に魅かれて行ったのさ。だから潮をあのサークルに参加させて、出来るだけ会える時間を長くしたんだ。つまり、単純な話だよ。私は恋に落ちただけなんだ」


 ゆったりとした笑みを光さんは窓に向ける。

 どうしてか悪寒が体に走る。


「けれど、私の恋は単純じゃなかった。ねじ曲がってたんだよ。恐れからね」


「恐れ?」


「うん、恐れ。お前も一回は経験したことがあるだろ? 例えば、私が実家から出ていく時にさ。唯一の理解者がどこかに行ってしまうかもしれないなんて言う漠然とした恐れさ」


「……そうだね」


 光さんは寂しさに溢れた目を叶さんに向ける。

 そして、叶さんは目を伏せる。


「だから、囲うことにしたんだよ。私の傍から潮が絶対に離れないように、特製の鳥籠を作ることにしたんだよ。そのためにはまず、たった一人の友達から潮を引き離すことにしたんだ。だから、外村をあのサークルに入れたのさ」


「なるほど。だから、何のかかわりもない俺を二年の春になって勧誘してきたんですね」


 罪悪感の一切を排した爽やかな表情を光さんは外村に向ける。

 おぞましさを覚えるほど健やかな笑みに、外村は頬を掻きながら昔を振り返るように瞼を閉じる。その表情はすこぶる穏やかで、光さんに対する怒りだとか嫌悪感だとかは、一切見えてこない。何食わぬ顔で、過去を振り返って過去の自分を見つめているようだ。純粋な心を持っているからこそ出来ることだと思う。利害や因縁に執着しない清廉な心を持っているからこそ、自らが利用された過去を冷静に見つめることが出来ているんだろう。

 そして、深い呼吸を三回ほど終えると外村はゆっくりと瞼を開けて光さんに顔を向ける。緊張とか憎悪とか安堵とかの感情は込められていない全くもって平坦な表情を外村は見せている。どういう訳か、僕は外村の表情に魅かれる。本物の太陽の美しさは僕の目を奪うんだ。


「けど、それであの結果になったのは単に松野の落ち度です。それに俺の落ち度でもあります。だから、別に良いですよ、光さん。それにあの時、もしも俺が松野を追いかけて、そして大学でも松野が俺に向けてくる拒絶を恐れずに無理やりにでも話していれば、俺と松野の関係も昨日まで破綻しなくて済んだはずですしね。なあ、松野?」


「……そうだな。それとあの絶交は、お前のせいじゃないよ。完全に僕のせいだ。お前の差し伸べてくれた手を拒絶したのは僕だし、お前の提案を裏切って停滞の道を選んだのも僕だ。だから、僕のせいなんだよ」


 外村は悪くない。

 純粋な外村は決して悪くないんだ。

 あの愚行は僕を起因とするものだ。そして、謝らなければいけないのは僕だ。

 けれど、外村は僕の自責に眉をしかめて難色を示す。


「悪いとか悪くないとかはどうだって良いんだよ。何でもかんでも二極化して考えるのは、自分の首を絞めるだけだぜ。あの時からずっとお前には、絵の才能があるって俺は知っていた。だから、俺はお前に人物画を描くことを薦めたんだよ。というか、そうしなきゃ駄目だって思ったんだよ。得意だけれど凡庸な風景画に囚われるんじゃなくて、本当に自分を表現できる人物画をお前に描かせなきゃ駄目だって思ったから、俺はお前に人物画を描くことを薦めたんだ。大学じゃ誰もお前の人物画を評価してくれなかったけれど、俺にとってはお前の人物画が一番だと思ってたんだよ」


「……けど、それなら僕がお前のことを無自覚に傷つけてたことになる。その面から見たら僕が悪いんだ」


「確かにお前は俺を無自覚に傷つけてたよ。けど、それはお前が謝ることじゃないさ。それに俺はお前の才能に照らされて、自分の絵も見直すことが出来たしさ。あの日、俺が提出した絵はお前の影響下にあるものなんだよ。お前の内面を抉り出すような苛烈な視点に立って描いた絵なんだよ。だから、謝るなよ。謝ってくれるなよ」


 眉間の皴を伸ばして、人懐っこい笑みを僕に向ける。

 許されて良いのか?

 僕はこれで許されて満足か?

 本当にこれで良いのか、僕は?

 いや、良いとか悪いとかじゃない。

 これはきっと終わりで良いんだ。これ以上、僕が僕自身を責めてたところで何も生まれない。それに外村が許してくれると言っているんだ。これ以上もこれ以下もない。

 それに僕と外村はもう一度友達になった。

 それが全てじゃないか。


「ありがとう、外村」


「分かってくれて何よりさ」


 カラッと外村は笑う。

 そして、部屋には輝かしい日差しが再び差し込む。


「分かりあえてよかったね、潮」


「どの口が言うんですか」


 悪びれた表情を一切見せずに、光さんはけろりと笑う。

 もちろん、絶好は僕の責任だ。これだけは譲れない。全て終わりにしても良いと言ったし、外村にも外村の言い分で良いと言ったけれど、大きな責任は僕にある。

 だけれど、僕と同じくらい光さんにも責任がある。なのにもかかわらず、光さんは我関せずの姿勢を突き通している。

 自分の犯したことに責任を取らないのは、穢れたことだ。

 自由には責任が付きまとうものなのに、責任を拒絶するのは道理に反する。


「まあ、怒られるのも当然だよね。それ相応のことをしでかしたんだからさ」


 ただ、嫌悪感を僕が示した瞬間、光さんはしゅんと萎びれる。


「とかく、やり方は分かってたから外村を入れて潮の自信をへし折って私に依存させようとしたわけさ。けど、まさか外村をサークルに入れたことによって潮が破れかぶれの自信をつけて、あの十五枚の絵を描き上げるとは思わなかったよ」


 光さんは外村と僕をちらりと見ながら、自らの愚行を反省するように言葉を紡いだ。


「そして十五枚の歪んだ人物画を見た時、私は潮に才能があることに気付いたんだ。外村が見出した狂気的な才能がね。私はそれが悔しかった。私と同じ凡庸な画家だと思っていたのに、私と同じで才能を持ってない人間だと思ってたのに、違ったんだ。だから、私はその才能を隠そうとしたんだ。これは恋っていうよりも、嫉妬だね。羨望だよ。そして、私はありもない嘘を潮に吹き込んだ。そして、一生私と潮が一緒に居られるようにするための会社を作った。あの絵画教室は、潮のために作ったんだぜ」


「重いですね」


「重くて良いよ。それくらい私は潮のことを愛しているんだからさ」


 くすっと光さんは笑いながら、僕に抱くあまりにも重い恋心を伝えた。

 けれど、不思議なことに僕の心はさっきのように燃えない。顔も赤熱しないし、悶え苦しむ様な息苦しさを覚えることは無い。その代わり、言いようの無い寒気を覚える。言語化することの出来ない暗い冷たさが、全身を包み込む。もしかしたら、疲労が見せる幻影的な感覚なのかもしれないけれど、とにかく冷たくて寒い。


「けど、それじゃあどうして僕のところに姉ちゃんは潮の絵を持ってきたんだ? 本気で潮の才能を隠しておきたかったんだったら、絵を全部処分するか何かするはずだろう?」


 鉛のように重く、冷たい空気の中で今まで目を伏せていた叶さんは顔を上げて問いかける。

 叶さんの疑問は確かにそうだ。

 もしも、光さんが徹底的に僕の才能を隠そうとするんだったら僕部屋にあった残りの絵を壊すことだってできたはずだ。それくらい過去の僕は、光さんに依存していたのだから。

 でも、光さんは僕の絵を破壊しなかった。それどころか叶さんという天才に僕の絵を預けた。矛盾する事実だ。


「どうしてって、さあ、どうしてだろうね? 私も分からないよ。でも、多分、私にも罪悪感っていうのがあったんじゃないかな。だから、徹底的に潮の才能を破壊しなかったんだと思うよ。私の甘さだね」


 ただ、矛盾する事実に光さん自身も理由を見つけることは出来ていなかった。そして、光さんは自分に呆れるように空虚な目で、自分の手を見つめる。そこには光さんにしか見えない血がついているのだろうか?


「甘さ。確かにそうかもね。なんだかんだ姉ちゃんは善人だしね。悪人になろうと思ってもなれない良い意味の半端者だよ」


「良い意味なんて無いよ。私は悪人さ。徹頭徹尾の悪人じゃないけれど、それでも私は潮の才能を今日まで潰してきた。その事実を鑑みれば一発で分かるだろう」


「いや、存外そうでもないよ。だって、姉ちゃんは僕と潮を引き合わせてくれたんだからさ。そして、結果論にしかならないけれど僕も潮も乗り越えるべき壁は乗り越えたんだ。その引導を渡してくれたのは姉ちゃんだ」


 酷く似合わない暗い顔を浮かべる光さんに、叶さんは屈託のない笑みを向ける。

 叶さんの笑みには善良な意思だけが含まれていて、一切の悪意はなかった。僕の才能を隠そうとしたことは事実だ。

 けれど、それ以上の結果をもたらすことを光さんはして見せた。そして、その結果に至るために必要だったのは光さんが捨てきれなかった善良な精神だ。本当に僕の才能を隠したかったのなら絵を止めさせることだってできたはずだ。だけど、光さんは僕の細々とした活動を応援してくれた。職を与えてくれたし、暮らしていけるだけの賃金もくれたし、僕の心が折れないように応援もしてくれた。叶さんの立場に立って見ても、光さんは自らの出来得る悪行を成さなかった。僕らからしてみれば、光さんは随分と善い人だ。悪人とはかけ離れた善い人だ。

 だから、そう、似合わない暗い顔をしないでほしい。

 いつもみたいに笑っていてほしい。

 あなたは太陽で居てほしい。


「そうです。光さんは僕らに希望を与えてくれました。打つひしがれていた僕を見捨てることなく、色が見えない病気を患った叶さんを見限ることなく、その手で支えてくれました。だから、どうか、そんな顔をしないでください。いつもみたいに何食わぬ顔で、僕らの太陽であってください」


「そうですよ、光さん。確かに光さんは俺たちに酷いことをしました。けど、それ以上に俺たちは成長できました。それは全部、光さんのおかげなんですよ。ですから、笑っていてくださいよ」


 僕と外村の声を受けると、光さんは暗い顔に微かな明るさを取り戻した。

 けれど、朗らかな太陽の明かりは戻っていない。


「笑ってよ、姉ちゃん。というか、姉ちゃんが笑うことこそが姉ちゃんの贖罪なんだから笑ってもらわなきゃ困るよ」


 だから、叶さんは最後の一押しを告げた。

 歯に衣着せぬ物言いは、正直どうかと思ったけれど、今の光さんにとってはこれくらいインパクトのある言葉の方が伝わるだろう。

 そして、叶さんの言葉は上手く作用した。


「本当に憎たらしい弟だよ、あんたは」


 光さんは顔に満面の光を取り戻して、僕らに向けて笑って見せて。

 僕らは光さんの笑みを見ると不思議と笑みが浮かんだ。

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