Love
信じられない奇跡を見た様に、光さんはジッと僕らの描いた絵を見つめる
自然の美しさと感情が見事に調和し合った叶さんのいつまでも見ていたいと思える絵と、僕の汚れて荒み切った醜い絵。その相反する芸術を光さんは、身じろぎせず、一切の動作を暫時止めて、見つめ続ける。
いつも通り人懐っこい犬のように愛らしい微笑を浮かべていた外村もまた、僕らがついさっき完成させた絵を見つめて何も言えずにいる。
二人の反応は、僕の胸中に得も言えない多幸感をもたらす。今にも飛び跳ねたいような、今にも穴に入って隠れたいような喜びと恥とが一緒くたになった普段の生活では感じたことのない幸福感が、僕の胸に満ちる。もっとも、二人がどういった感情に動かされているのかは分からない。もしかしたら、あまりにも醜い絵を見て言葉を失っているだけなのかもしれない。それとも、叶さんの描いたあまりにも美しい絵に世間と同様に見惚れているのかもしれない。だけれど、どっちであったとしても僕が今感じ得ている幸福感は汚されないだろう。
部屋に差し込む春の光は、にわかに暗くなる。
同時に光さんも外村も忘れていた動作を取り戻す。そして、光さんは叶さんを見たことのない鋭く睨みつけ、外村は僕に優しい視線を送る。一方は冷たく、一方はあまりにも温かい。
張り詰めた空気と、緩んだ空気。二つの相反する空気がアトリエ内を支配する。
臆病者の僕にとってこの反する二つの空気は、無益に僕を緊張させるだけだった。暖かい視線を注がれているのにもかかわらず、あの夏に逃げ出した人間を迎え入れてくれる優しい温もりを受けているのにもかかわらず、僕は恩人の敵意に怯えるばかりだ。旧友の優しさよりも、見たことのない恩人の鋭い冷たさの方が受け入れやすいらしい。
「……やっぱり、潮は風景画よりも人物画の方が自分を表現できるんだ」
冷たく鋭い視線とは異なる儚げな声音で、光さんはぼそっと呟く。
「ああ、そうだよ。潮の描く風景画は全くもって凡庸だ。何の感動も抱けない毒にも薬にもならないつまらない絵だ。けど、人物画は違う。潮の人物画は、潮自身の芸術が籠ってるんだ。それに、この芸術は印象的で、非凡だよ」
そして、叶さんは僕の未熟さを指摘しながらも称賛の言葉を紡ぐ。
相変わらず僕に視線を向けている外村も、叶さんの言葉に同意するように何度も何度も繰り返す頷く。
気恥ずかしさと嬉しさが、臆病者の緊張する心に現れる。
「非凡ね。天才のあんたがそう評するなら本当ね。嘘偽りのないまごうこと無き真実ね」
「ああ、真実だよ。けど、姉ちゃんは潮が風景画よりも人物画の方にセンスが傾いているってことを知っておきながら、潮に風景画を描かせ続けった言うのも真実だ」
「我が弟ながら痛いところを突くね」
不快感と敵意を込めた視線を叶さんは、光さんに向ける。
「どうして、姉ちゃんはそんなことをしたんだい? それにどうして潮の絵を僕にくれたんだい? 答えてくれよ」
「どうして、ね。まあ、答えは単純だよ。ただ、ここで言うのは恥ずかしいことだね。非常に恥ずかしい。けど、言わなきゃ潮にも仁にも、それにあんたにも申し訳ないから言わなきゃいけないね。それが私の責任ってやつだからさ」
「それじゃ、姉ちゃん。責任を果たしてくれよ」
二人の敵意は、ほとんど会話から除け者にされていた僕と外村を身震いさせた。
消えることのない陽を内包した外村にさえ、曇りかかった冷たい冬が訪れた。そして、臆病者の僕はより張り詰めた緊張が訪れる。口は乾き、手汗が止まらない。加えて、信じられないほど体は強張る。
何かを恐れるように、何かから逃れたいように。
「簡単な話だよ。何よりも簡単で、酷く馬鹿々々しい理由だよ。そのためだけに私は仁をあのサークルに入れて、そのためだけにあんたに潮の絵をあげたんだ」
「回りくどい言い方しないで早く言ってよ」
「本当にあんたは、人の気持ちが分からないんだね。そんなんじゃ、社会に迎合することは一生できないよ。ちょっとは人がどうして回りくどい言い方をしているのかを考えてみた方が良いぜ。お前を愛するお姉ちゃんからの忠告さ。自分の感性だけが全てじゃないんだからさ」
「じゃあ、ありがたく受け取っておくよ」
「素直で良い子だ。昔からあんたのそういうところは好きだよ。ただ、素直すぎるところが良くないんだけどね」
「姉ちゃんもそうやって言葉を濁すところが良くないんだよ。いつもいつも大切なことを言わないで、自分の感情を隠しているところが良くないんだ。だから、そう、だからあの時、僕と姉ちゃんの間に亀裂が入ったんだよ」
「私のせいだって言うの? あれはあんたの失礼でしょ。私がどんな気持ちであんたの絵を見ていたか、そしてどれだけ私が絵画に心血を注いでいたのかを知っていればあんなこと言わなかったでしょ」
「確かにそうだ。けど、僕は残念ながら人の感情が分からない。姉ちゃんとしか喋ってこなかったから。それに、喋ってきた姉ちゃんは自分の本音を隠してた。だから、余計に僕は人の感情が分からないようになっちゃったんだよ。だから、言ってほしいんだよ。分からないから、教えてほしいんだよ」
歎願するように、そして過去を懺悔するように震える声で叶さんは光さんを見つめる。
叶さんの視線に光さんの瞳は揺れ動き、口角は微かに上がる。
「そっか、へえ、あんたも成長したんだね。なら、私も成長しなきゃだ」
光さんは腰に手を当て、それまで纏っていた冷たい雰囲気を溜息と共に吐き捨てる。
「ねえ、叶。あんたは人を好きになったことってある?」
「好き。LikeかLoveのどっち?」
「もちろん、Loveの方だよ」
「それじゃあ、あるよ。というか、今さっきその感情を僕は覚えたよ」
「それなら話は早いね。私はね、その感情に流されて潮に酷い仕打ちをしたんだ。ずばり、言ってしまえば潮を愛していたんだよ。いや、愛しているんだよ」
光さんは屈託のない笑みを僕に向けながら、虚飾の一切を排した素直な言葉を紡いだ。
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