sister
叶さんの唐突な提案に対し、僕は呆気にとられた。
そして、頭の中は真っ白になった。
光さんがここに来て、もう一度僕の描いたこの絵を見た時、あの日の夜のような表情を浮かべ、再び停滞を象徴する安らかな鳥籠の中に送られるのではないかと思って、何も考えられなくなった。あらゆる物事があの日の光さん、アルコールが回って顔を上気させ、色っぽくて、僕が肉欲を抱いたあの人が提示した快楽が再び僕の下にやってくるのではないかと思うと、何もかもを混濁させた。
だからこそ、僕は叶さんが支えてくれる中で、何も言えずに黙って美しい人の純粋な提案を見続けることしかできなかった。そして、他人と共存することの意思を伝えてくれた人の微かな温もりが離れる時も僕はジッと黙って、愛の一端を教えてくれた人の動きに従って、硬いアトリエの床に横になることしかできなかった。
過去の誘惑に脅かされ、ぼうっと白けたまま僕が黙っている間にも、叶さんは思い立った行動を思ったままに続けていった。前日から何も食べず、それに加えて一切の睡眠をとらなかった人の脆弱な肉体のどこからその元気がやってくるのか全く分からなかった。分かったところで、僕の頭が冷静さを取り戻して、普段通りの思考を扱えるようになる訳がないから、叶さんの肉体面に関する疑問が解決されたところでどうでも良いことだ。けれど、心配なくらい痩せ、栄養と睡眠が欠落している不健康な肉体のどこから突飛な発想が浮かんでくるのかは酷く不可解だった。
意味のない不可解を抱えたまま、僕は黙って窓を見つめた。
変わらない町の風景が、高級住宅街の静かで爽やかな景色が大きな窓ガラス越しに見える。朝日は徐々に高まり、薄らとした白雲が春の青空を微かに彩った。都内では見れないと思っていた、田舎の美しい景色と窓の内側から見る住宅街の景色はよく似ていた。畦道も、田んぼも、山さえも見えない都会の一風景にどうして故郷の田舎を想ったのかは、いまいちわからない。いや、分からないと片付けているだけで、結局は分かっていたのかもしれない。真っ白になってしまった脳のどこかで、まだ普段通りの思考ができる程度の色が残った領域があったのかもしれない。過去に恐れず、自分らしさを保てると確信している僕という存在を証明するためだけの領域が生き延びていて、そこで僕は住宅街と田舎がに居ていることに対する簡潔な解を導いていたのかもしれない。
何もかもが『かもしれない』だ。けれど、その『かもしれない』はある可能性もあった。何せ、僕の才能があったのかもしれないという世界が現に、こうして現れているのだから。
ただ、それを踏まえても、僕が芸術をやるに値する人間であるという確証が今目の前に実物としてあったところで、僕は光さんが与えてくれた過去の生きやすい環境に怯えてしまった。
酷く情けない気分になった。
風にあたりたくなった。
きっと、都会の風にあたれば僕の中にあるどうしようもない人間性を否定できるだろうから。変に生ぬるい風じゃなくて、酷く冷たくて金属による痛みを内包した風にあたれば、僕は弱々しい僕自身を淘汰出来るだろうと思ったから。
だけども、そう思ったところで僕の体が動くことは無かった。
動けるはずの体も動かず、一切は時間の流れと叶さんの意思によって動いていった。
光さんと、どういうわけか松野もこの家に来ること、そして叶さんが自らの感情を伝えることも。
「急に呼び出してどうしたのさ? こっちは仕事があるんだけど……って、少年。どうして倒れてるのさ」
「倒れてるわけじゃありませんよ。ただ、疲れて横になってるだけですよ」
「お邪魔……って、松野、何してんのさ?」
「さっき光さんに言った通りだよ」
そして、時間はゆったりと流れながらも、物事は急速に動き出す。
僕が白けた目で、何かに怯える目で外を眺め、やがて朝日が朝日として側面を失い、自らの存在を普遍的な太陽に替えたころ、今現在、一番で会いたくない二人が叶さんのアトリエに足を踏み込んだ。
こうして毛嫌いしていた松野を、自らの聖域とまで言っていたアトリエに入る許可を下したのも、叶さんなりの成長なのだろう。もしくは叶さんが光さんに連絡しているときの一時的な衝動だったのかもしれない。何せ、松野が足を踏み入れた瞬間、僕の横の椅子に座る叶さんは眉間に皴を寄せ、あからさまな態度を取ったのだから。
けれど、あからさまに悪意のある表情を見せても、感情に任せた言葉を叶さんは吐き出していない。色彩感覚が戻って少なからず冷静な自分を取り戻したんだ。成長を考慮しなくとも、これだけは紛うこと無き事実だ。
俯瞰して叶さんのことを考えると、どうしてか酷く緊張して、なおかつ疲れているはずなのにさっきまで一切動かなかった体も動く。ようやく自分の言うことを聞くようになった体の上体を起こして、僕は二人の顔を見る。
二人の顔色ははっきり言ってあまり健康的ではない。少し白いし、目の下には薄っすらとクマが出来ている。きっと、あの後、二人は紫で飲みつぶれたのだろう。けれど、二人はそうした体調が振るわないことを、そして光さんに限っては絵画教室の営業時間を詰めてまで、わざわざ赴いてきてくれている。
なら、そう、怖がらずに挑まなければ。
「ああ、叶、頼まれてたやつ。サンドウィッチと缶コーヒー」
真っ白な脳が徐々にいつも通りの色彩を取り戻していく中で、光さんは叶さんに向けてコンビニのビニール袋を突き出す。
「ありがと、姉ちゃん。あとで払うよ」
「良いよ。これくらい姉貴面させてくれよ。というか、人前ではそう呼ばないんじゃなかったっけ? 高校時代の私の友達に馬鹿にされて以来、人前じゃ『姉さん』呼びが普通だったじゃん」
「良いんだ。もう、色々と吹っ切れたからさ。これからは社会と迎合して生きて行くって決めたからね」
叶さんはサンドウィッチと缶コーヒーのセット二つ取り出しながら、何気なく、自らの決意を伝えた。いや、光さんの願った挫折による成長の成果を実姉である光さんに宣言したと言った方が正しい。
突飛で、唐突すぎる言葉に叶さんは呆気にとられる。目を大きく開けて、短いスパンで瞬きを繰り返す。そして、喜びの言葉を、唯一無二の姉弟の成長を祝う喜びの言葉を紡ぎ出そうと口角を喜びによって上げる。けれど、その喜びは一瞬のうちに消え失せた。代わりに吐き出されたのは、鬱屈とした感情が籠った溜息だった。
信じられない。
人の不幸も幸福も、全てを自分のように理解できるはずの光さんが、太陽のように明るく誰でも包み込んでくれるような明るさを持つ光さんが、あからさまに叶さんを突き放すような態度を見せることに驚きを隠せない。
松野も僕と同じだ。信じられないと言わんばかりに、小さく口を開けている。
「叶。お前には無理だよ。絶対に無理だ。他人を見下して、自分の殻に籠って、しかも他人の努力を馬鹿にするような大馬鹿者に社会と迎合することは無理だ。絶対にね」
そして、光さんは底冷えする鉛のような言葉を紡いだ。
「人間に無理なんてないはずだよ。ほら、僕の病気も治ったし、潮の絵もほら!」
ただ、叶さんは希望に満ち溢れた声音で、自らが描いた絵と僕の描いた絵を紹介する。
そして、光さんは再び目を見開く。
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