dry
ざらつきのある乾燥した唇は、不快感を覚える。
けれど、どうしてか心地が良い。
そして、心地よさに胸の奥が締め付けられて、逃げ場のない熱が体に籠る。同時に衝動が、あの時、昨夜叶さんを見て抱いたあの鮮烈な肉体的な欲求が、乾いた絵具が水に溶けるように蘇ってくる。
駄目だ。
否定しなければならない。
腐った杏のような芳香を放つこの欲求は、純粋無垢な美しさを持つ叶さんに対して向けてはならないものだ。これは僕の魂の中に収めておかなければならない。きっと、衝動に負けて一度でもこれを世に放ってしまえば、取り返しのつかないことになるだろうから。たった一人の人間に縋りついてきた人間が、心から愛せる唯一無二の対象を見つけてしまったのなら、あの人と同じように、光さんと同じように小さな鳥籠の中に閉じ込めてしまうだろうから。誰に触れられないように、誰にも見られないように。
柔らかな唇の温もりは、パンドラの箱となってしまった自分自身を見つめているうちに離れてしまった。建前を言えば、僕自身の理性を保つための建前を言えば、離れてくれて清々した。けれど、僕自身の欲求に従った本音を言えば、もう少しだけ、ほんのわずかな間でも良いから、叶さんの温もりを感じていたかった。僕の心を完全に溶かすまで、僕の理性が二度と元に戻らなくなるまで触れ合っていたかった。
本能が盛る性的欲求が放つ火に、僕の胸はじりじりと焦がされる。かつて行われていた魔女裁判の火あぶりのように、じりじりとつま先から徐々に徐々に焦げてゆくような気分だ。痛くて、辛くて、じれったい。一気に壊してくれれば良い理性という名の城壁は、亀裂が入るばかりで一向に崩れる気配を見せない。中途半端に壊れたまま、城塞の中で僕を焼き続ける。
ついさっき感じたばかりの心地よい胸の締め付けは、いつの間にか絞首台の冷たい荒縄に代わってしまった。心地よさはまるでなく、衝動に焦がれる汚らわしい肉欲だけが僕の胸の内を支配する。
だけど、この悪辣極まる支配下に置かれていても、決して顔を崩してはいけない。せいぜい、突発的で衝動的な行動に驚いて呆気に取られていると思われる程度の反応しか僕には許されない。これ以上、感情を発露させたらきっと叶さんは僕の中で渦巻く汚らわしい感情を察知するはずだ。いや、物を言わなければ分からない叶さんが果たして僕の表情一つで、僕が抱いている感情を読み取れるとは限らない。それに今だって、ほら、妙に熱っぽく顔を赤らめて、艶やかな表情を浮かべている。いつか光さんが僕に見せてくれた表情に、よく似た感情を顔に示している。つまり、状況的に言えば僕らは同意したことになる。僕の絵の完成、叶さんの色彩感覚の復活をもってして愛は実ったということにすれば、美談以外の何物でもない。誰もがこの物語にラブロマンスを抱くはずだ。それならば……。
駄目だ。
いくら理屈をつけたところで、健全な判断すらすることが出来るのか危うい幼すぎる人の幼すぎる衝動に身を任せるわけには行かない。人生経験が乏しく、恋愛経験が零の僕も、年齢からすれば年上だ。少なからず叶さんは僕よりも年下だ。だから、本来は僕が教えて、僕が守らなきゃならない存在なんだ。それも恩人の家族というのであれば、ことさら僕は僕自身の肉欲による理屈の下で動いてはいけない。馬鹿々々しいほど原始的で野性的な個の衝動に身を任せるということは、獣に落ちること同義だ。
だから、駄目なんだ。
けれど、揺れる僕の心持を知らない叶さんは再び僕に唇を、誰もが見惚れる純粋な美しい顔で、精神的なあどけなさと相反するしなやかで艶やかな肉体的なエロティックを、唾を飲み込むにしたがって動く首の筋肉、微かに盛り上がる喉仏に纏わせながら、僕に近づける。
もう、このまま流れに従ってしまえば……。
いいや、違う。
これは断じて違う!
ここで流されてしまえば、再び僕は僕自身の絵が描けなくなってしまうはずだ。また、僕は自分の鳥籠の中に閉じこもって、今描いたグロテスクで見る人すべてが不気味に思うような絵しか描けなくなってしまう。だから、今は、いや、これからもある個人に僕自身を任せちゃいけないんだ。それは一時の解決でしか無い。
近づいて来る叶さんの乾いた唇に、僕はほとんど力の入らない右手の人差し指を当てる。日ごろから家に閉じこもってばかりいる僕の白い肌に着いた赤の絵具は、不健康な叶さんの唇よりもずっと鮮烈に僕の目に映る。色を取り戻した人の白々とした肌にも、人差し指の赤は映える。同時に、怒涛の如く保護欲が湧き出た。この人を守りたい、この人に無償の愛を注ぎたいというおおよそ平等な視線に立っているはずの成人した男性に向けるべきでない感情があふれる。
ああ、光さんが自分の下に僕を繋ぎとめていたのはそういうことだったのか……。
果たして、光さんの寵愛を受けるほどの人間的な価値が僕にあったのかは分からない。けれど、光さんはきっとこの無償の愛の欲求を僕に対して抱いていたんだ。まだ光さんから直接聞いていないから、これが真実なのか断定することは出来ない。加えて、そんな人に向ける愛を恩人に聞けるほど僕は肝が据わった人間じゃない。だから、きっとこれは一生予想のまま終わることだろう。だけど、光さんは何か特別な感情を僕に持っていたはずだ。昨夜も、あの日も、そして今も。
なら、なおさら駄目だ。
恩人からの愛を無碍にすることは出来ない。
じりじりと焦がされる僕の感情は、瞬間、元に戻る。
城壁に入った亀裂もすっかり元通りとなり、理性的な意識が蘇る。
「駄目ですよ」
緊張して掠れた声で、極めて信頼性の低い小さな言葉を漏らす。
「どうしてだい?」
せっかくのロマンスを邪魔された叶さんは、眉間に皴を寄せながら首を傾げる。
あまりにも幼い反応は僕の心を微かに揺れ動かして、肉欲を再び呼び覚まそうとする。けれど、理性の城壁が感情の発露の一切をせき止めてくれるおかげで、僕の表情は変わらない。鏡も無ければ、個人的主観による評価でしかないから、本当に表情が変わっていないのかは分からない。もしかしたら、僕の表情はすっかり解れて、崩れているのかもしれない。
でも、少なくとも僕の自意識は自分自身の本能に理性が懐柔されたことを認めていない。観測していないから。だから、そう、僕はその主幹のまま働こう。
「僕には光さんが居ます。食い扶持を持たずに卒業を迎え、神童と言ってくれた人たちの期待を裏切るわけにも行かず、地元に帰ることも許されなかった僕に救いの手を差し伸べてくれた唯一無二の大切な人が居ます。その人を裏切ることは出来ません」
「ふふ、意外と情熱的なことを言うんだね。けど、別にさ、良いだろ? 君は姉ちゃんに対して恋してないじゃないか」
ほっそりとした手で叶さんは、僕の右手首を掴んで、自分の口元から離そうとする。
けれど、力が入らなくとも僕は叶さんを傷つけないよう手に力を入れる。
「確かにそうです。けれど、僕が恋をしてるしてないの問題じゃないんですよ。僕は今までもらってきた慈しみと愛を光さんに返さなければならないんですから」
「返す?」
「そうです。光さんは僕を救ってくれました。そして、最低限の職と生活を僕に保証してくれました。それに光さんは、今まで見たことのない景色を僕に見せてくれました。トモさんや紫のマスターと言った人生の先輩、あなたという素敵な人、他にもいろいろな人に光さんは僕を導いてくれました。多分、きっと、光さんが与えてくれた機会は一生涯、僕の宝となると思います。そんな宝物をくれた人の優しさを裏切れません。裏切ったら、僕は人じゃなくなります」
疲労によってぼんやりとしていた頭は、いつの間にか清々しいほど晴れ渡っていた。
だからか、次々と無数の言葉が頭に浮かんできた。
けれど、叶さんは僕の言葉に対して機嫌を悪くしている。頬を膨らませて、いかにも妬いていると言った風だ。
「人じゃなくなるね……。というか、そもそも姉ちゃんは本当に潮のことを想っているのかい?」
「分かりません。けれど、役立たずの僕を無償でここまで生かしてくれたのは間違いなく光さんです。光さんが居なければ、今頃僕は真っ当な生活を送れていません」
「確かにそうだね。けど、聞いてみないことにはそれが本当か分からないよ? 本当に姉ちゃんが潮のことを想っているのかどうかって言うのはさ」
叶さんは僕の右手から離した手を顎先まで持ってゆくと、髭が一切生えていない顎を摩りながら不敵な笑みを僕に向ける。
僕は叶さんが浮かべる笑みに、嫌な予感を覚える。
「なら、実際に聞いてみないとだ。嘘が吐ける電話じゃなくて、実際にここに来てもらってさ」
「……へ?」
そして、嫌な予感は見事に的中した。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます