fools
白色の美しい輝きはイーゼルの前の窓ガラスを容易く通過して、微かな疲労を覚える僕の下に届く。
手は、腕はもう動かない。
かれこれ、数時間、ぶっ通しで絵を描き続けてきた僕の体は集中力も体力も限界を迎えていた。けれど、限界を迎えると同時に僕の絵は、僕の心象風景、僕が本当にこの世に示したかった芸術はこの世に誕生した。
爽やかな朝日が輝く、清々しくて透き通った朝には、似つかわしくないおどろおどろしく歪んだ絵が出来上がったんだ。
自然界におけるあらゆる物質を曲解して捉えた着色、本来は完璧な調和のとれた肉体を持っているはずの人間の姿をした神も、酷く歪んで人間のようには見えない。人間というよりも強風によって歪んで育った一本の老木のように見える。ただ、恍惚とした表情が張り付いた茶こけてやせこけた老木のように。
赤黒い空、蛇がとぐろを巻いているかのように渦巻く泉、鬱屈とした深い緑、そして絵の中心には老木が如き、青紫の靄がかかったような一人の神。これこそが僕の示したかった芸術だ。これこそが、人間の内面に渦巻く感情を全て描き込んだ僕の個人的な感情が見せる情景だ。美しさは欠片もないし、見ていて不快な感覚にも陥る。
けれど、僕自身がこう思っているのだから間違いないのだろうけど、今まで僕が描いてきた絵の中で最も印象に残る絵だ。あの日、あの時、この絵を品評会に持っていったのなら、きっと外村以上の評価を授かることが出来たと思う。それに、きっと、この絵をどこかのコンクールに出せば、何かしらの賞が確実にもらえると思う。傲岸不遜な態度かもしれない。けれど、本当に僕はこの絵が世の中にあふれる芸術の中でも、凛然と輝く絵だと確信している。異彩を放つ絵だと思う。
これまで自分で曲げてきた認識と、僕を歪ませたありとあらゆる情動を示した絵は、今ここに完成した。そして、僕は完成した達成感、初めて自分らしい芸術を表せたことに対する大いなる満足感を得た。心持は絵が持つ表情に反して、随分と穏やかで、清々しい気分だ。それこそ窓の外にある心地よい朝のような気分だ。加えて、今日まで抱えてきた錘が全部外れたような気がした。僕の成長をありとあらゆる面から阻害していたありとあらゆる要因が、全て清々しい朝を迎えたことによって壊れた。いや、僕を繋ぎとめていた錘は、全て夜が見せた幻影だったのかもしれない。そして、心が朝を迎えたことによって、幻影はすっかり消え失せて、僕は真なる自由を手にしたのかもしれない。
まあ、何はともあれ清々しい気分だ。
何にも代えがたい感情が、僕の心を満たして、今すぐにでももう一枚絵を描いてやりたい気分になる。もっとも、もう一枚絵を描くことは不可能だ。肉体的限界がもう来ているのだから。精神面は問題ないにしても、精神を内包する肉体が動いてくれない。これからは体も鍛えよう。いつまでも、何時間でも、何日でも絵が描けるように。
張り詰めた集中から解き放たれた体は、自らが知らず知らずのうちに蓄積した疲労に自覚的になった。結果として、僕の体は非常に重い疲労感を覚え、瞼は睡魔の誘いに誘われ、四肢に入っていた力は霧が晴れるように徐々に消えてゆく。右手に持っていた絵筆、左手に持っていたパレットは音を立てて床に落ちた。体は今すぐにでも椅子から転げ落ちそうになる。全てを出し切った体は、自らを支える背骨の機能すら失わせるらしい。
「大丈夫かい?」
「大丈夫です……。ただ、酷く疲れたんですよ」
「疲れた。けど、君にはまだご飯を作ってもらってない。だから、倒れてもらっちゃ困るよ」
「叶さん、あなたは悪魔ですか」
「なんとでも呼ぶと良いさ。今、すこぶる気分が良いからなんと呼ばれても構わないよ。ただ、君が起きてくれてさえいればなんだっていいさ」
ゆっくりと倒れる僕の体を叶さんは、後ろから支えてくれた。
僕の軽い体は、叶さんの細い腕でも容易に支えられたらしい。
そして、叶さんは昨夜とは違って具象的だ。
触れれば崩れてしまいそうな、誰かかが傍に居なければ壊れてしまいそうな儚げな雰囲気は一切ない。それらの印象とは真反対の位置で、叶さんは活発な笑みを浮かべている。しかも、その笑みには今までのような傲慢な意思は感じられない。そこには純粋な感情、ヒマワリのような丸みを帯びた喜びだけが含まれている。
果たして、どうして叶さんがこんなにも上機嫌なのかは分からない。その上、約二日間ぶっ通しで何も食べずに絵を描いているはずなのに、溌溂としているのかもわからない。何もかもが分からないで解決されてしまう。そして、分からないことを導きたいとも思えない。これは明瞭な解を導くための道程を歩むほどの体力を、僕が持ち合わせていないからだ。叶さんは起きていろというけれど、それは非常に難しい。
もう、今にも寝てしまいそうだから。
「寝ないでくれよ。せっかく、君がここに居る成果が挙げられたんだからさ」
叶さんは満面の輝かしい笑みを浮かべながら、僕の左頬に手をあてがう。
「僕の成果?」
「ああ、そうさ! 君の成果だよ。例え、それが建前だとしても、単に君が君自身を成長させたいがための行動だとしても、遂に君は成し遂げたんだよ。ほら、見てごらん」
左頬にあてがった手に力を入れて、叶さんは僕の顔を右隣のキャンバスに向ける。
「……!」
目を見開く。
眠気は吹き飛んだ。
僕の体を支配する重々しい倦怠は弾けて消えた。
僕の目に映ったのは一枚の絵だ。
燦々と輝く大きくて、真っ白な太陽が中心に描かれ、おぞましく真っ黒で歪んだ夜を照らし出す一枚の絵があった。
色彩は完璧だった。僕の絵と違って美しい自然の様が、生き生きと表されている。なのにもかかわらず、どうしてか叶さんの絵は自然の模倣に終わらずに、人間的な感情を含んでいる。絶望と、絶望を乗り越えることの希望が、自然の中に落とし込まれている。
これ以上にない調和がとれている美しい絵が、イーゼルに立てかけてあった。しかも、絵具の乾き具合から言って今さっき完成したばかりの作品だということが分かる。
「色が……」
「そう! 色が見えるようになったんだよ! 筆を握っても、パレットを持っても、僕の世界から色が消えることは無くなった! 今まで通り、全ての色が僕の前に現れたんだよ! モノクロの世界は消えたんだ。僕の手には再び自由な芸術が宿ったんだよ!」
心底嬉しそうな表情を浮かべ、今まで聞いたことのない純粋な声音で、叶さんは自らの絵に喜んで見せる。
そして、僕もまた微笑む。
一応、年上の身分だからこそ余計に喜べる。
叶さんは遂に絶望の淵から希望の丘へと帰ってきたんだ。不死鳥のごとく、才能という炎から迸る火花を僕という人間に恵みとして与え、地に堕ちた時よりも力強く、叶さんは舞い戻ってきたんだ。
絶望は希望へと変わり、傲慢は誠実に変わった。
僕もまた変わった。
叶さんという太陽に当てられ、朝を迎えた僕の心は晴れ渡り、これ以上ない表現の自由を手に入れた。僕は遂に暖かい世界を、光さんが用意しくれた鳥籠以外で暖かい世界を手に入れたんだ。
ただ、僕自身の芸術が大成したとは言えない。
僕はただ、僕自身の芸術の一端を初めて表すことが出来たに過ぎない。
けれど、それでも、今はこの自由を、手にした新天地に降り注ぐ暖かな心持を、不死鳥の輝きと共にゆっくりと、噛みしめるように味わおう。
「潮、ありがとう。君のおかげだよ」
「僕は何もしていませんよ」
「いいや、君のおかげだよ。君が僕の中に燻る感情に言葉を与えてくれたから、そして、感情を解き放っても良いと言ってくれたから、ずっと自分の本性だと思っていた僕の態度を、嘘だと言ってくれたから、僕はこうして色が見えているんだ。君は僕を正してくれたんだよ。僕を思い違いから引っ張り出してくれた」
本当に僕は何もしていないのに、叶さんは僕の目をジッと見つめて、誠実と謙虚を兼ね備えた言葉を紡ぐ。
混じりけの無い感謝の念だ。
これを嘘だと僕には言えない。
けれど、その評価は過大なものだと思う。思い違いの穴から、自分の本性だと思っていた高慢で驕慢な態度から抜け出たのは、叶さん自らなのだから。僕がしたことと言えば、偽りの自分が本当の自分だと思い込んでいた暗闇の穴でうずくまっていた叶さんに、手元が見えるように微かな明かりが灯るランプを与えたくらいだ。あとは全て叶さんが、自らの手で成し遂げたことだ。
「それは、どう返答すれば良いんですか?」
だから、僕は返答に困った。
そして、困った大馬鹿者は愚かさを隠さずに凛とした美しさを向ける叶さんに解決方法を尋ねた。
「君は本当に馬鹿なんだね。僕の性別を勘違いしていた時も、憐憫を隠すために目を覆った時も、今もさ」
正直すぎる僕の問いかけに、叶さんはクスクスと純粋に笑う。
僕は子供らしく純粋に笑う叶さんの顔に見惚れる。きっと、叶さんが中性的な見た目でなくとも、もっと男性的な見た目であったとしても、この胸の高鳴りは生じていたと思う。
「だから、そんな馬鹿な君に最適解を教えてあげよう」
胸を張って、叶さんは鼻息を鳴らす
「なんですか?」
「それは沈黙だよ」
そして、叶さんは熱っぽい微笑を浮かべると、自らの唇を僕の唇にそっと押し付けた。
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