easel
絵を描くために選んだ場所は、あの汚れた絵が立て掛けられたイーゼルの右隣。
つまり、叶さんの真隣だ。
真隣に僕は椅子を置いた。
叶さんは自分の隣で、僕が絵を描くことに驚きを覚えた。けれど、叶さんの中に広がった同様の波はすぐさま穏やかになった。そして、何も言わず、微笑むことも無く、意地らしい表情を浮かべるわけもなく、自らと同等の立場に立つ人間に向ける一種の尊敬の念を込めた息遣いで、僕が傍らで絵を描くことを許可してくれた。淡白とも思える反応なのかもしれないけれど、僕は叶さんの対応が酷く嬉しかった。
決して混じり合うことなく渦巻く感情の下、イーゼルを立て、そこにキャンバスを立て掛ける。
当然のごとく、キャンバスは真っ白だ。そして、真っ白なキャンバスを僕は撫でる。布地の若干ざらざらとした感触は、大学を卒業してからしばらく感じていなかった懐かしい感触だ。
哀愁はあの時、五年前のあの日の出来事を鮮明に思い起こさせる。
僕を少しでも成長させようと、歩み寄って、手を差し伸べてくれた外村の手を弾いて、心地良い鳥籠を授けてくれる光さんの手に乗った愚かな自分の姿がありありとキャンバスに映し出される。痩せた人間を信じられない哀れな廃人寸前の芸術家紛いの姿がキャンバスを汚す。だけど、そこから目を逸らしてはいけない。これが僕の過去であり、外村に謝らなければならないもう一つのことなんだから。いつまでも過去から逃げ続けて、呪縛に囚われ続けていちゃ駄目なんだ。成長しなければ、停滞を破壊しなければならないんだ。
いや、外村に僕は本当に謝って良いのだろうか?
傲慢な推察だけれど、外村が僕の人物画が認めていたとしたら、謝られることは反って外村を傷つけてしまうのでは無いんだろうか?
それは昔、叶さんが光さんにしてしまったことと同じなのでは?
駄目だ。いくら自分に問いかけてたところで、他人の心が分かるわけがない。他人の心は、実際に聞いてみて初めて分かるんだ。だから、懊悩し続けることは時間の無駄だ。今度会うことがあったら、あいつに聞こう。あの時、僕のことをどう思っていたのかを。
歪んだ僕の肖像は懊悩の消滅に従って、消えて去った。あとに残るのは現実だ。真っ白なキャンバスという何にでもなれる現実が、僕の目の前に残る。
僕は鉛筆を手に取る。
下描きをするときはいつでも緊張する。
このひと振りで絵は始まりを告げる。その後、最後の一筆になるまで絵は永遠に完成することは無い。けれど、このひと振りをしない限り絵は始まらない。始まらなければ終わりもなく、終わりが無ければ、絵は完成しない。つまり、芸術を表現することが出来ない。
それは駄目だ。
それは僕の生きる意味を否定することだ。
嫌だ。
僕が、僕が今生きている証を描かなければ。
覚悟を決めて、僕は下描きを始める。
モチーフはもう決まっている。大学三年生だったころ、その彫刻を写真で見たことがある。そして、ずっと描こうと思っていた。けれど、僕は描くことが出来ないと初めから諦めて、今日まで引きずってきた。
だけど、今なら描ける。
鮮烈なインスピレーションと、得体の知れない自信が湧き上がってくる今なら描き切れる。
普段とは違う画具を使うから下手くそさに拍車がかかるかもしれない。けれど、例え下手くそであったとしても僕はこの絵が出来上がるころ、この絵に対して途方もない愛を覚えているはずだ。あの時、十五枚の人物画に抱いた感情と全く同じ作品に対する愛を覚えるに違いない。それほどまでに、僕は今描き始めた絵に興奮を覚えている。
手は止まることなく、すらすらと下描きを描いて行く。
水、木、土、空、雲、風、それらすべての事象を大雑把に、そして、ろくに描けない人間の輪郭を迷いなく大胆に描き続ける。下描きからでも自分が、歪んだ人間を描いていることが分かる。けれども、この輪郭を消すことは無い。この輪郭こそが、本来の僕の芸術だ。迷い無く、僕が示したい歪んだ人間性という芸術だ。僕の芸術的信条に反した作品になることは違いない。理想と現実は乖離するだろう。
けれど、理想に反した芸術になっても良い。
芸術の大成のためなら、僕は自らの理想すら捨て去ろう。
全てを犠牲にするんだ。
全てを犠牲にして僕は僕自身の芸術を得るんだ!
「嘘だろ……」
僕の覚悟に? いや、もっと違う何かに叶さんは声を漏らす。
一体、何に言葉を漏らしたのか僕には分からないし、分かりたくもない。
ただ、僕は自分の芸術に没頭していたい。
「良し」
自分で考えるよりも深い集中のおかげで、下描きは完成した。アトリエに時計が無いから、今が一体何時なのかは分からない。
けれど、まだ夜は深い。
月は傾いていない。
なら、このペースでいけばきっと描き切れるだろう。
椅子の足の傍らに置いていたアクリル絵具とパレット取って、パレットに黒、赤、青、紫、黄、緑の絵具を出す。そして、あのキャビネットの傍らにあった水汲み場から水を汲んでおいたバケツに絵筆を付ける。水を含んでぷっくりと膨れた筆先を、水汲み場に掛けてあった雑巾で拭いて、必要な水気以外を筆から取り除く。
そして、下描きに色を着けて行く。
真っ白なキャンバスに描かれた線画に、下手くそな歪んだ線画に、僕をぶつける。僕が頭の中で思い描く歪んだ絵に、歪んだ印象をより強烈に与える現実離れした印象を色として示す。
この一枚のキャンバスの中に閉じ込められたありとあらゆる自然を不自然に、本来は美しいはずの人間を汚らわしく、出来るだけ汚らわしく色を塗る。もっとも、腐敗の色ではない。腐敗は自然にある。あくまでも自然に無い人間にしか考えられない異様な色を重ねて行く。白は黒、青は赤、肌は黒々とした青紫、風は黄色と緑、全てが不自然に見えるように、けれども調和のとれた色にするように色を重ねる。
不思議なことに色で悩むことは一切なかった。
もしかしたら、単調な色を塗っているだけなのかもしれない。けれども、単調な色だとしても今のところ調和は取れているし、これから余白が塗り染められ、完成に近づいても調和が崩れることは無いと思う。いや、『思う』なんていう曖昧な表現じゃなくて確実にこの作品は調和がとれたまま描き終わる。絵描き自身がそう言っているのだから間違いない。
色を塗る。
色を塗って、また重ねる。
重ねて深みを出して、膨らみを出す。
調和を崩さないように、ありとあらゆる感情をこめて、色を塗り続ける。
例え、見た人が物騒で見るに堪えない色遣いになったとしても、それこそが僕だ。
今だけは傲慢に行こう。
手が痛くなろうと、腕が疲れようと、僕は筆を動かし続ける。
時間は分からない。
分からなくていい。
今は、そう、この絵に没頭すればいいのだから……。
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