sanctuary

 アトリエはリビングに比べて整理されている。

 と言っても、それはあの散らかりようを前提に置いた上での話だ。

 イーゼルの周辺には画材が転がっているし、極彩色に塗りたくられた胸像の頭には白地の布が覆い被さっている。加えて、滅茶苦茶な色で塗られた描きかけの水彩画も、くしゃくしゃに丸まってアトリエ中に満ちている。

 何より目につくのは、アトリエに入って真正面に見える女性の絵が描かれたカンバスの前に置かれた二本の絵筆とパレットだ。絵筆は大きな力によりボキッと折れており、鋭い木っ端として調和の取れていない油絵具が盛られたパレットの上に乱雑に置かれている。そして、破壊された芸術の後ろには、黒と茶色と紫が入り混じった汚らわしい色で塗られた裸婦画が、絶望と困惑に満ちた表情を浮かべている。芸術しか手にすることが出来ず、芸術しか愛せなかった人間の最後を看取るように、僕の目を一瞬にして奪った泉の中の裸婦像はアトリエの中に蔑むように鎮座している。

 苦悶、苦悩、苦痛、挫折、解決方法の分からない八方塞がりの懊悩が部屋を満たしていた。

 光さんは叶さんの看病を僕に任せ、僕がむざむざと踵をひるがえして帰ってきたとき、挫折をもってして人間性を豊かにしてほしいと言っていた。確かに芸術家から色を奪うことは陸上選手からアキレス腱を奪うほどの大きな挫折だ。いや、挫折というにはあまりにも大きすぎる。この惨状が証明だ。もちろん、光さんの言っていることは間違いのないことだと思う。生業を奪われたのなら共生する他、道は残されていない。そして、共生は、つまり人を拒絶せずに自らの生活圏に招いて、支え合う生活というのは叶さんが一番持ち合わせていない能力だ。最も近くで、最も親密に叶さんと付き合ってきた光さんも、このことは当然分かっていたと思う。

 けど。だからと言って、どうして光さんは叶さんが自らの作品を創るための道具を破壊するに至るまで叶さんを放っておいたんだ?

 この惨状が少なからず現実になることを、光さんは知っていただろう。

 例え、光さんが叶さんに傷つけられたことに恨みを持っていたとしても、光さんはそれを無自覚のものだと分かっていたはずだ。純粋無垢で、この世で澱みの無い最も美しい心を叶さんが持ち合わせていることを光さんは理解していたはずだ。

 なのに、どうして、光さんは叶さんに手を差し伸べなかったんだ?

 青白い月光に照らされるアトリエの惨状は、無意味で、独善的で、他人行儀な怒りを僕に抱かせる。

 発散の仕様が無いどん詰まりの憤りだ。

 いや、違う。

 初めから詰まった感情として諦めちゃ駄目だ。

 僕には芸術の義務がある。

 そして、芸術の義務に僕は全てを注ぎ込むことを決めたはずだ。

 叶さんに抱いた腐った杏のような爛れた肉欲と、光さんに今抱いた独りよがりの憤りを僕は全て印象として、自分の芸術として描く義務があるんだ!

 なら、やってしまおう。

 今、感じ得る全ての感情を一枚のキャンバスの中に閉じ込めてやろう!


「叶さん、どこで描けば良いですか?」


「好きな場所で描いていいよ。絵筆と絵具は右のキャビネットに入ってるし、キャンバスは左の倉庫の中に各種揃ってるよ。だから、そいつらを使って君は好きなように描いていいよ。イーゼルもそこらへんにあるしさ」


「それじゃあ、お言葉に甘えて」


 アトリエの明かりを点け、用具の場所を指し示す叶さんに従って、僕は僕自身の衝動が失われないうちに、キャンバスを取りに行くために足を動かす。

 段ボールが積み上げられた個人用の倉庫は切れかかった電球のせいで薄暗く、肌に纏わりつく湿気が荷物のせいで小さく思えるコンクリート造りの空間の中に籠っている。加えて、微かにカビ臭く、微かに埃臭い。おおよそ、というか確実に叶さんが日ごろから掃除していないことが原因だろう。せっかく付けられた換気扇の羽に、薄らと埃が積もっていることから換気もろくにしていないことが分かる。本当にこの人は、いったいどうやって今まで暮らしてきたんだろうか? 叶さんの生活についての謎は深まるばかりだ。

 ただ、叶さんの生活に関する謎は今別に解かなくてもいい。

 僕が今すべきことは、いつでも解が分かる謎を解き明かすことじゃなくて、今僕が抱いているこの感情的衝動を全て一枚のキャンバスに注ぎ込むことだ。それ以外のことは考えなくて良い。

 描くだけなんだ。


「……F6号。これがきっと僕に出来得る限界のサイズかな」


 新品のキャンバスが幾枚も入った段ボールを片っ端から開けて、ようやく手ごろなサイズのキャンバスを見つけた。

 このサイズなら僕の衝動を全て描き切れる。

 今、この短時間で、僕の集中が持ちうる間で描ける限界はこれだと思う。

 だから、これに全てぶつけよう。

 明かりを消し、キャンバスを脇に抱えながら次は画具の入っている戸棚に足を運ぶ。その間、叶さんの運命を象徴するかのような汚れた絵の前で、叶さんが虚しさを纏いながら立っているところがちらりと視界に映った。触れていなければ、見ていなければ、どこか誰も知らない場所に消えてしまいそうな雰囲気が叶さんかそこに居た。

 けれど、僕は立ち止まらなかった。

 ここで僕が立ち止まって、叶さんに声をかけたところで結果は僕の自己満足に過ぎない。

 叶さんは自己満足を望んでいない。叶さんが望んでいるのは……? いや、叶さんじゃない僕が望んでいるのは僕自身を発露することだ。停滞することじゃない。これ以上の停滞したところで、僕の手に芸術が宿ることは無い。意地汚く地べたを這いつくばってここまで生きてきた理由を、その象徴を掴むことは出来ない。

 何も手に出来ないのなら、何をしても意味が無い。

 利己的かもしれないけれど、駄目なんだ。もう二度と巡ってくることのないかもしれないチャンスが、目の前にあるのにもかかわらず、それを知らんぷりして人のために動くことはしちゃいけないことなんだ。

 今だけは貪欲になるべきだ。

 芸術に対して底知れない欲求を示して、何にも妨げられず自らの芸術を大成させる覚悟をもってして、動くべきなんだ。

 だから、今は叶さんに蒙昧で良い。

 止まりかけた足に再び力を込め、僕は画具を取りに向かう。あの時は見えなかった二つの神聖なる領域に、叶さんが自らの神殿とみなしていた聖域に、今は僕だけが入ることを許された禁足地に僕は向かう。

 右に見えたのは随分と大きい木製のキャビネットだ。古いヨーロッパの趣を感じさせるダークオークの重々しいキャビネットは、アトリエの一角に君臨している。何度も何度も触れられた両開きの扉の真鍮製の取手は、すっかりその輝きを失っていた。けれども、輝きが喪失した取手はキャビネットの風格を厳かなものとし、これ以上ない存在感を放っている。これは確かに聖域のように感じられる。他人が触れることすら許されない叶さんだけの大地だ。

 触れることすら許されないキャビネットに、畏れ多くも僕は取手を握る。そして、なるべく慎重に、なるべく神聖な空間を雑音で汚さないようにゆっくりと開ける。

 中には整然と、絵の系統ごとに画具が並べられている。油画、水彩画、クレヨン画、アクリル画と言った具合に、それぞれに適した画具がこれまでとは違って整理されている。やっぱり、あの人にとって芸術は何物にも代えがたい唯一無二の生業なんだ。


「アクリル画……」


 その生業の一粒、ほんの微かな芸術の一片を手に取る。

 アクリル画。

 この手法で僕自身の衝動を描くために。

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