apricot

 胸が発し、瞬間的に脳に届く甘酸っぱい杏のような感情は、鮮烈なインスピレーションを沸き立たせる。

 けれど、圧倒的なモチーフは瞬時に怪我され、腐臭に満ちる。甘酸っぱい感情は腐乱した死体を見つめているようなおぞましい心持となって消え失せる。あとに残るのは歪に歪められたモチーフと、不埒な動機により湧き上がる芸術に対する熱狂的な欲求だけだ。

 今すぐにでも筆を握って、絵を描きたい。

 鬱屈と溜まっていた僕の中の情熱は、固く閉ざされた重々しい箱の中から突如として開放される。


「大丈夫かい?」


「はい」


 首を傾げてこちらを覗き込んでくる叶さんに、腑抜けた返答を返した。

 同時に著しい芸術に対する緊張感が胸に張り詰め、鳴り響き、濁り切った色彩が思い浮かぶ。どういう訳か叶さんを見ていると、僕が持ち合わせているであろう僕だけの芸術が浮かび上がってくる。今までに考えたことのない色、構図、モチーフの発想が次々と頭の中に浮かんでくる。

 ただ、浮かび上がる発想は全て歪んでいる。

 汚れていて、おどろおどろしく、とても美しい芸術とは思えない狂気的な発想が頭の中を支配する。加えて、浮かび上がる発想の全てをキャンバスの上に描かなくてはならないという義務感を覚える。一刻も早く、この衝動を形に残したい。鮮烈な腐敗臭が頭の中に残っている内に、描かなければならない!

 焦燥する僕の心は、僕が持ち合わせる集中力を全て芸術的発想に満ちる脳に向ける。叶さんの眼差しも、美しい顔も、低めの声も、何もかもが満月の夜の何気ない事象として消化されてゆく。まるで価値のない出来事かのように、量産された映画のワンシーンのように、印象は一瞬にして薄らいでゆく。目の前には僕にしか表せない芸術が、おぼろげな形を表す。


「ふふ、何か見えたんだね。なら、描いてみるべきだよ。それがきっと君にしか表せない、残せない芸術なんだろうからさ」


「……」


 あてがう手を退けて、眼前から遠ざかった叶さんはクスリと笑う。

 きっと、普段であれば、そう、平然の僕であれば今の叶さんに暫しの興味を払っていたんだろう。

 けれど、今は駄目だ。

 僕は今、僕自身の内省的な情景に囚われている。

 一人だけの、僕だけの、僕だけが眺めることの出来る唯一無二の情景に僕は囚われ続けているんだ。だから、叶さんに興味を向けることは出来ないし、興味を向けたところでそれは叶さんに払うべき礼を失うこととなる。だから、これは本当に独善的なことだ。これだけアドバイスをもらっておきながら、一刻も早くこの場から飛び出して、家に帰って自分の絵を描きたいなんて言うのは愚かなことだ。

 いいや、愚かなのは初めからだろう?

 芸術のためなら傲慢な態度と高慢な姿勢を持っていても……。

 違う。

 駄目だ。

 それは僕の芸術に反する。傲慢と高慢から生まれる芸術は確かに何物にも代えがたい美しさを持っているのかもしれない。だけれど、その美しさは人間本来の美しさとは異なるはずだ。それ以前に、一個人の情しか反映しない酷く小さな世界での芸術は僕の目指している市民のための芸術に反する。一般の人が見て、『素晴らしい』と『美しい』と言われる芸術を僕は目指しているんだ。

 だから、駄目なんだ。

 けど、描かなければ……。


「そうだ、僕のアトリエ貸してあげるよ。画材も全部貸してあげるよ」


「本当ですか?」


「ああ、本当だとも。大体、あそこ無用の長物となってるから誰かに使ってもらいたかったんだよ。ほら、人が使わなくなったところってすぐに荒れ果てるだろ。だからさ、使ってほしんだよ。色の見えない僕に代わってさ」


 寂し気な笑みを浮かべる叶さんは、運命が与えた残酷な重荷を僕に貸してくれると言ってくれた。

 ちっぽけな僕に、歯牙にもかけられなかった僕に、叶さんは自らの私財を貸してくれると言っているんだ。こういった誇大的な例えはあまり使いたくない。けれど、安っぽい言葉では無く、本心からこの人は神だと思う。

 後光の消え、地に堕ちた神様だと思う。


「ありがとうございます。本当にありがとうございます」


 触れれば消えそうな儚い叶さんに、懸命に頭を下げる。

 その間、叶さんは思慮深い笑みをこぼす。慈悲のような、僕を救済してくれるような温かい笑みを僕に掛けてくれる。


「良いんだよ。君は善き理解者なんだからさ」


 そして、叶さんは僕の両頬を両手で挟み、僕の頭を持ち上げる。

 眼前には満面の笑みを浮かべる、棘がすっかり抜けきった叶さんが居る。


「だから、早く行こうぜ。僕も君に絵を教えていたら、久しぶりに絵が描きたくなかった。色が見えなくとも表現できることはあるからね。それこそ、雪舟の絵のようにダイナミズムを内包したものが描けるかもしれない。だから、行こう。僕たちの世界にさ」


「はい」


 僕は叶さんにゆったりと微笑み返す。

 すると叶さんは手を離して、立ち上がり、僕に手を差し伸べる。

 細く、骨ばった頼りない硬い手は、不思議と大きく見えた。


「ええ、行きましょう」


 そして、僕は不思議な手を、叶さんの手を、マエストロの手を取る。

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