common
今の自分を全てさらけ出した評価は、極めて普遍的で何ら芸術性の無いというものだった。
いや、こんな保身に走る言葉ではぐらかしちゃいけない。結局のところ、僕が描き切った作品は叶さんの言葉通り、量産品染みた印刷物紛いの絵でしかない。つまり、包み紙や緩衝材にしかなり得ないつまらない作品なんだ。
さっきまで五感をもって鑑賞で来ていた田舎の風景は、もうクレヨンと黒鉛で出来た紛い物の風景になっていた。心の家で抱いていたあどけない探求心も、描き切った時に覚えた心地よい疲労感も、今や空虚の中に溶け込んで、それがさっきまであったことだけを僕に認識させる。下らない印象とこれに伴う灰色の靄が、胸中に立ち込める。
酷評に晒されただけで、紫から飛び出た時に持ち得た自信はすっかり折れてしまった。
逃げ出したい。
何か、また叶さんに言われる前にこの場から逃げ出したい。
ちっぽけな心が、現実から逃れたいという欲求をくすぐってくる。
こうして、地べたを這いずる死にかけの惨めな羽虫よりも、さらに惨めな人間が出来上がる。哀れな人間は多様な色で汚れた細い手を見つめて、自らを非難する。才能があると言われたのにもかかわらず、これを発揮できず、傍らの美しい人の期待を裏切ってしまった自分自身に嫌悪感を覚える。啖呵を切って、今まで自分を匿ってくれていた人の下から飛び出したのにもかかわらず、その信念すら持ち続けられない自分に対して刃を突き立てて、薄黒い愚か者の血潮の全てを体から排出してやりたいように思える。
愚かで、あさましい、自惚れた馬鹿が今、ここに居る。
「別にそんなに落ち込まなくたっていいだろ」
天賦の才を持つ叶さんは、惨めな人間の頬を突っつく。しなやかな指の微かな圧力が頬をくすぐって、むずがゆい感覚が現れる。けれど、叶さんに僕が受容している感覚が分かるわけなく、ほっそりとした指で僕の頬を突き続ける。
頬を突く間隔は、時間に従って、僕の自己嫌悪の経過に従って徐々に狭る。
つんつんと僕の痩せっぽちの頬を、絶え間なく、ボタンを連打するように叶さんは突く。
「辞めてくださいよ」
「ああ、ごめんごめん。つい、楽しくてね。けど、君も悪いんだぜ? いつまで経っても、僕の言葉に反応してくれないんだからさ」
いよいよむずがゆさに耐えられなくなった僕の反撃に、叶さんはわざとらしく驚く。
どうやら叶さんは僕の気を引きたかったようだ。
随分と可愛らしいことだ。
随分といじらしいことだ。
けれど、きっと、これは正しいことではない。もう少し良いやり方があるはずだ。正しいやり方なんて、人間関係が希薄な僕には分からない。
でも、薄い僕でも人の気を引く方法はあるはずだと思う。
もっとも、こんな下らないことで思い悩んでいても意味が無い。
無意味な思考と時間だ。
ああ、何も生み出すことのない虚無虚無しい全てを芸術に注ぎ込むことが出来たら。もしも、これが出来たのなら僕は再び過去の栄光を、叶さんが天才と評した過去の僕を手に入れることが出来るのかもしれない。ちっぽけな自分のちっぽけな思考なんて馬鹿々々しい感傷に過ぎないのだから、ここに消費されるエネルギーの全てを芸術に投資した方が良いことは明白だ。そして、そのすべてを注ぎ込んだ時、今の僕にかつての栄光が宿るのかもしれない。
「ほら、そうやって塞ぎ込まないでよ。大体、君の風景画が大したことのないのは今更だろ。日中、君にも言ったじゃないか。そして、君はその酷評を覚悟してここに居るんだ。だからさ、そうやって一々傷つかないでくれよ。正直、女々しくて面倒くさいんだよ」
「……分かりました」
「何を分かったんだい?」
感情を逆なでする言葉を、叶さんは平然と紡ぐ。
「女々しさと自分の浅はかです」
けれど、叶さんの言葉は並べて事実だから口籠りながら僕は答える。
自分の弱さを肯定することは酷く辛いことだし、痛々しいことだ。それだから叶さんの言葉を俯きながら待つ僕の胸は、鋭い痛みと耐え難い圧迫感を覚える。たった一枚の絵の評価に関することだけで、こうも狼狽えてしまう。
馬鹿かな?
「そうかい。君が分かってくれるのなら、僕はそれで充分さ。まっ、一つだけアドバイスすると人の評価なんてあんまり気にしない方が良いよ。例え、それが僕のような天才だとしてもね。芸術は多様な感受性の集合体だから、たった一つの意見に耳を傾けて、ぶつくさ一人で思い悩むのは大馬鹿者だよ。だから、まあ、他人の評価なんてほどほどに自分の作品制作に向き合った方が良いよ」
やっぱり、馬鹿だ。
僕は愚かな大馬鹿者だ。
自分の感情に絆されて、一つの価値観に囚われていても何も生み出さない。
これが正論だ。
天才が言っているからというのは、それは正論に対して矛盾していることだ。けれど、少なくとも世間から評価されている自らの芸術を大成させた人が言っている。だからこそ、一意見に囚われることは馬鹿なんだ。無知蒙昧になることに等しいんだ。
「はい、ありがとうございます。おかげで少しだけ胸が軽くなりました」
俯きがちな顔を、柔和な笑みを浮かべる叶さんに向ける。
珍しい表情は月光に照らされて、より美しく僕の目に映る。
「そうかい。ふふ、そうかい。人に感謝されるって言うのは、意外と嬉しいものだね」
叶さんは頬杖をつきながら、にんまりと自らが成就させた一つの仕事に対して満足な笑みを浮かべる。それは叶さんが人間らしい人間に、俗社会に一歩近づいたことの表れだ。同時に幼い純粋な美しさを持ち合わせる叶さんが、変容し、また違った表現を獲得し得ることでもある。
ほんの少しだけ、叶さんは成長した。
けれど、いざ目の前で叶さんの成長を認めると、それは微かに寂しい。傲慢で高慢な人の角が取れて、丸みを帯びて、俗社会に溶け込もうとすることは素晴らしい。でも、僕は丸みを帯びた路傍の小石になるのかもしれないなんて言う杞憂を覚える。自らを抑圧し続けていた方が、社会をとことん拒絶している方が、叶さんは美しいのではないかとすら思えてしまう。
自己中心的な傲慢だ。
それじゃあ、まるで可愛さのために家に閉じ込められる猫と同じだ。
馬鹿だ。
人の人生を縛り付けようとする発想は愚かだ。
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