pencil

「ほら、とりあえず鉛筆を握ってくれよ」


 天板に転がる木目剥きだしの鉛筆を叶さんは手に取って、手持無沙汰な僕の右手に握らせる。軽々とした2Bの鉛筆は不思議と手に馴染み、すらすらと描けそうな予感がする。


「それじゃあ、やっていこうか。まあ、紙はこれで良いか。別に本気で作品を仕上げるわけじゃないから、書き損ねた僕のお古でも良いだろう?」


 床に散らばる紙の中から比較的余白のある紙を手に取った叶さんは、まだ使える部分を千切って、僕の前に置いた。そして、自分で描き損ねたと言った何かの胸像のデッサンをくしゃくしゃに丸めて、適当な場所に放り投げた。と言っても、叶さんは体に力が入らないのか、丸めた紙が遠くに飛ぶことは無かった。僕らの手前に、ちょこんと転がるに過ぎなかった。

 絵を教えてもらうよりも先に、僕は料理を作らなければならない。ほとんど移動していないような丸まった紙を見て、弱々しい生命力しか感じられない叶さんの痩せた体を見て、僕はそう思う。

 けれど、自らの体の調子を叶さんは一切見ていない。叶さんは、ただ楽しそうに、純粋に、けれど鋭い観察眼でもって、鉛筆が握られる僕の右手を見ているだけだ。おおよそ、絵の描き出しがどのようなものかを観察したいのだろう。


「叶さん」


 ただ、僕は僕自身の抱いた心配を優先する。

 ついさっきまで絵を描くことに乗り気だった僕が、その機会を一時中断するような口ぶりは何だか矛盾しているように感じられる。けれども、名目上、僕は叶さんの看病をするため、今この場に居るのだから、せめてもの責務を全うしなければならない。


「なんだい? 早く、絵を描き出してくれよ」


 もっとも、叶さんにとって機会を中断することは酷く腹立たしいことらしい。


「いえ、その前にご飯を食べませんか? 今日一日、何も食べてないんでしょう?」


「ああ、まあそうだけど、別に食事なんてどうでも良いさ。まだ、僕の体は動けるからね。大体、食事なんて言うのは本当に体が欲しているときにだけ摂れば良いんだよ。それ以外の食事は飽食だよ」


「……」


 社会的な営みに反することを口早に、そして苛立たし気に紡ぐ叶さんの姿は真なる芸術家のように思えた。中国の仙人のような、そんなあまりにも人間的生活を達観した人間のように、傍らの人は僕の目に映る。そして、変に達観しているからこそ、一度何かをやり始めたら、自らが飽きるまで、気が済むまでやり続けなければならないという片意地を張った態度を感じられる。

 もう、僕が絵を描くまで、自らが天才と評する人間の描く絵を見るまでこの人が、僕の右手以外のところに視線を向けることは無いんだろう。そして、この人にご飯を食べさせるためには、僕がここに来た建前を何とか果たすためには、僕が絵を描かなければならないんだろう。ならば、僕は描くだけだ。

 ただ、何を描けばいいのだろうか僕には分からない。

 この人を、僕を天才と評してくれたこの人を落胆させないようにするためには、どんな絵を描けば良いんだろうか?

 一体、どういったモチーフを取れば良いんだろうか?

 絵を描くための第一歩で躓く僕は一体、何をどうすれば良いんだろうか?


「なんだって良いよ。君の好きなような絵を描くと良いさ」


「はい……」


 第一歩に迷いを感じる僕に、叶さんは微笑と共に柔らかな言葉をかけてくれた。

 昨日までは考えられなかった優しい声音と優しい微笑は、瞼の裏に生まれ故郷の四月の田園風景を思い起こせた。まだ稲の植えられていない泥がむき出しの田んぼと、春曇りの空、そして雲の間から覗く淡いヴェールのような日差しが、ありありと浮かび上がる。湿った泥の臭いや微かに冷たい風すら感じられそうなほど、リアリティのある風景が頭で出来上がる。

 すると僕の手は自然と動き出す。

 田舎特有の風景を、平坦な自然を僕は自らの感性に従って、鉛筆を用いて紙に描き起こす。

 すらすらと、次々に僕の頭にある田舎の四月が千切られた紙の上に描き出されてゆく。

 卓上の鉛筆の種類は無数で、ありとあらゆる自然を表現できる濃淡が揃っている。そして、酷使されたクレヨンもA4紙程度の色付けをするには十分だ。

 僕は僕自身のリアリティと芸術を、叶さんのお古を使って描き続ける。

 無心になって、無心に?

 いや、こうやって自意識が残っていることは果たして無心なのか?

 僕は僕自身のすべてをこの一枚の紙に注ぎ込むことが出来ているのか?

 駄目だ。

 こういった迷いが、凡庸な作品を作ってしまう仇だ。

 早くやろう。

 一度やると決めたことは、徹底的に、貪欲にやって見せよう。


「……よし」


 暫時、時間すら忘れて僕は僕自身の芸術を紙に表現して見せた。

 鉛筆とクレヨンで出来上がったのは、僕の心象風景だった。

 春曇りのどんよりとしながらも若干の爽やかさが宿る空、泥臭そうな田園、畦道を彩る苔の一群、真っすぐと伸びる誰もいない農道、それらは全て僕の脳裏に浮かんだ風景だった。


「完成かい?」


「はい、これで完成です」


 叶さんは僕の右手から紙の上に視線を投げた。そして、なんだかつまらなそうな声にならない声を漏らすと、急に立ち上がって、上から見下ろすように僕の絵を見つめた。

 首を傾げ、腕を組む叶さんの表情は感慨に耽っているような、我ここにあらずと言った具合の表情だ。

 何を考えているのかよく分からない叶さんは、その考え込む表情のまま、再び僕の傍らに座る。そして、微かに空いている天板上に頬杖をつきながら、僕の顔を見つめる。


「どうですか?」


 僕は僕の絵に対する評価をうかがう。


「全然駄目だね。これじゃ、ただの絵だ。綺麗な絵でしかない。それこそ、病院のフロントだとか公民館の玄関に飾られているような人に印象を残さない量産的な絵の一群に過ぎないよ」


 叶さんは僕の問いかけに、ニコリと微笑みながら率直に評価を伝えてきた。

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