cry
偽りの表情のまま伝えた僕の言葉に、叶さんは静かに驚いた。
目を見開いて、口もほんのりと空けて、そして頬を赤らめながら驚きの表情を見せる。それは短い衝動に過ぎなかったけれど、高潔な雰囲気を纏う人が見せる表情にしては、凡庸な表情に見える。
「人並みの幸せ……」
そして、凡俗な表情はすっと収めると叶さんは、ぼそりと僕の言葉の一部を反芻する。
まるで自分が人並みの幸せを手にしてはいけない人間だと思い込んでいる人の声色だ。それは無自覚に人を傷つけたことを自認している罪に対する罰として、叶さんは自らの幸せを否定しているからだと思う。
けど、それはもう否定すべき罰だ。
いや、もちろん自分が最も大切にしてきた光さんを酷く傷つけてしまったことに罰を認めることは大切だ。忘れちゃいけないことだ。けれど、それを一人で背負い込んで、一人で解決しようとしちゃ駄目なんだ。一人で抱え込むことは、酷く不幸なことだし、現にそのストレスのせいで? 絵筆を握った時、色が見えなくなる病を患ってしまっている。そんな自分の生涯全てを打ち捨てるようなことは、罰の範疇じゃない。意識過剰な独善的な罰に過ぎないんだ。意識外の罰なんて要らなんだ。
自分にしか見えない自分で作り上げた鎖に、四肢を繋げて、事故の独房に囚われ続けることはもう止めてほしい。自分で作った鎖を、自分の手で、断ち切って自由になって欲しい。だから僕は、あなたを、叶さんの肯定する微笑を浮かべる。
「ええ、人並みの幸せです。人を傷つけた人間だって、その背中に十字架を負うことで幸せになれるんです」
ロマンス劇のセリフ染みた言葉に、叶さんは目を伏せる。
長い髪が垂れて、叶さんの顔は隠れる。
感情を隠した叶さんは、その細い手を、しなやかな手を、掌が硬くなった手で、僕の服の袖を摘まむ。ぶるぶると震える指先が示す感情が、悲しみか喜びか、それともそれ以外の感情か、僕には分からない。僕もまた叶さんと同じように、人の感情を感じ取る能力が無いのかもしれない。
いいや、僕は叶さんと同じように鈍感で、独りよがりで、どうしようもない愚か者だ。こんなにも悲しみに打ちひしがれる人に、肉欲すら覚えた愚かで図々しい大馬鹿者なんだから。
だから、叶さんの感情が分からなくとも良いんだ。
今はただ、叶さんが口を開くまで、自分の心の内を紡ぎだすまで、そして自らの鎖を断ち切って、抑圧という名の牢獄から出てくるまで僕は待とう。この人が自らの十字架を背負って歩き出すまで待ち続けよう。
「僕にもその資格があるの?」
上ずった震える声で、叶さんは問いかける。
「僕が言えた義理かどうかは分かりませんが、あなたは人並みに生きる幸せがありますよ。いや、誰にだってありますよ。だから、こう言うのも何なんですけど、自分を特別だと思わない方が良いです。誰もが人間という枠組みを超えませんから」
「そう……。そうなんだ、それじゃあ、僕は幸せに生きて良いんだね。これ以上、人を傷つけずに生きて良いんだね! そうなんだろ!?」
「はい」
短い僕の言葉の後に、昂る感情の叶さんは僕に抱き着いてきた。
そして、号泣した。
わんわんと、子供みたいに、心に山積した悲しみを全て吐き出すように。
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