dirty

 強く強く、僕の体温と僕の言わんとすることを伝えるために叶さんを抱きしめる。

 皮肉めいた言葉も、僕を拒絶する姿勢も、叶さんが持ち合わせる他者との関係を切り捨てようとする茨はこの人にもう要らないのだから。人間、誰でも分かり合おうと歩み寄れば、手を差し伸べてくれるんだ。例外もこの広い世の中には多くいる。けれど、そこで傷つくことは成長に繋がるはずだ。少なくとも、他人の感情を徹頭徹尾、察することの出来ない叶さんを成長させると思う。それが挫折の力だ。僕が得られなかった恵みなんだ。

 だから、叶さんはもう自らを孤高の天才と謳う必要はない。

 だから、無自覚に人を傷つけてしまうことを恐れなくて良い。

 叶さんは人に歩み寄って新しい人生の喜劇を探し出せるのだから。


「君はどうしてこんなに優しいんだい?」


 僕の右肩に額をあてがいながら、ボソッと叶さんは呟く。


「それはあなた美しいからですよ」


 恥ずかしげもなく、僕は叶さんの疑問を返す。

 今みたいな状況じゃなかったら、僕はこんな歯に浮いたようなセリフを言うとは出来ない。環境と自分に酔っぱらっている今だからこそ、喋れることだ。だから、今を存分に利用して、恥ずかしい言葉を全部言ってしまおう。そうすれば、僕がこの人を無自覚に傷つけなくて済むから。

 そう、だから、僕のやっていることは自己満足なんだ。僕が叶さんを傷つけたくないから、こうやって抱きしめて、浮ついたセリフを吐いるだけだ。叶さんは流されているだけに過ぎない。けれど、雰囲気に流されて、自分をさらけ出すことは簡単に自分を見つめることが出来る。だから、どうか、この夜更けの雰囲気に流されて、抑圧されて逃げ道を失ってきた感情を吐き出してほしい。

 僕一人しかそれを聞いていないんだから。


「嘘吐け。僕に傷つけられた奴が、そんなこと言うはずがない」


 けれど、叶さんは拒絶する。


「いいえ、本当ですよ。ですから、どうか僕を信用して下さい」


「本当かい?」


「僕があなたに嘘を吐く道理が、どこにあるんですか?」


 抱きしめる力を弱め、優しい声音で叶さんを諭す。

 すると、叶さんは僕の肩から額を離す。じんわりとした湿り気と、わずかな暖かい叶さんの体温が右肩に微かに残る。そして、叶さんは大きく息を吸い込む。膨張する肺が胸に当たり、吸い込まれる空気が耳を触れてくすぐったい。ふうっと、吐き出される生ぬるい空気はなぜか心をくすぐる。


「確かにそうだね。じゃなきゃ、こんなことしないだろうしさ。まあ、人間関係が希薄だったからどれが普通で、どれが普通じゃないかなんて分からないんだけどさ。けど、うん、少なくとも潮のことは信用できるよ」


 先ほどまで僕に向け続けていた拒絶の姿勢を一転させて、叶さんはクスリと笑う。そして、叶さんは僕の痩せっぽちの胸板を両手で押すと、僕の緩んだ腕から抜け出す。

 しばらく密着していた華奢な体が離れると、僕の胸には気色の悪い寂しさが生まれた。もう少しだけ叶さんと体温を共有したい、もう少しだけ叶さんの呼吸を感じていたいという欲が、僕の胸の中に芽生える。

 不健全で気持ちが悪い。

 弱みに付け込んだ肉欲なんて醜い感情が、貴い空間で生まれるわけが無い。いや、産まれちゃいけないんだ。決して人が弱っているところに、赤くはれた目元と未だ潤む瞳に、欲情して良いはずがない。

 ああ、けれど僕の中に芽吹いてはいけない欲求が芽生えてしまった。

 今すぐにでも胸を掻きむしって、無邪気な笑みを向けてくれる叶さんの前から逃げ出したい。けれど、それは許されざることだ。光さんと外村に啖呵を切って出てきたのにもかかわらず、過去の自分に戻るなんて自分の価値を人間以下にすることに等しい。僕はまだ人間で居たい。また、環境に依存して、堕落と虚無を享受するだけの狢になりたくない。僕は変わるんだ。変わらなければならないんだ。

 純粋無垢な心で叶さんは、歪んで汚らわしい僕を見つめる。

 止めてほしい。

 今の僕は、あなたを受け止めるほど美しくないのだから。

 けれど、人の心を一切読むことの出来ない叶さんに、僕が思っていることは伝わらない。叶さんは首を傾げて、男性のらしくない可愛らしいとぼけた表情を向けるばかりだ。それが僕にとって、どのような影響を持つのかも知らずに。

 僕はその影響下から抜け出すために、叶さんから顔を逸らして夜空に浮かぶ満月に目を向ける。不器用で愚かな人間は、物理的に影響の源を遮断することによってのみ、魅了と精神を犯す毒から逃げることが出来るのだから。それに冷徹な輝きを持つ月が、僕の愚かさを罰してくれるような気がしたから。


「潮。どうしたのさ?」


 突飛な僕の言動に、叶さんは当たり前のことを言う。


「いえ、ただ、月が綺麗だなと思っただけです」


「へえ、雅な感覚を持ってるんだね」


 ぶっきらぼうに言い放ったことを、叶さんは真実として受け止めてくれたらしい。

 嘘を嘘と見抜けないことは正直、心配になる。けれど、その勘違いによって今の危機的な状況を乗り越えられた。罪悪感で胸が痛む。


「まあ、そんなことはどうでも良いんだ。それでさ、君が僕に言いたかったことは何なんだい?」


 ただ、叶さんは勘違いのまま今を認識している。

 だから、こうして純朴な声音で疑問を投げかけてくれるんだ。

 ああ、駄目だ。この人の純粋な心を汚すわけには行かない。それは僕が叶さんに対して振るうことの出来る権利を超えている。だから、叶さんに僕の罪悪感を感じ取られる前に、この痛みを隠さなければ。そして、伝えなければならないことを伝えなければ。

 月から顔を逸らして、僕は手に向けて不器用な笑みを向ける。自然な笑みじゃない。不自然すぎるお面のような笑みでしかない。鏡は無いけれど、それくらいは分かる。だけど、そうだけれども僕はこの笑みをもってして、叶さんの疑問に答えなければいけない。そうすることによって、僕は叶さんの印象のままの僕になれるだろうから。

 甘い自分の考えに従って、僕は顔を上げる。


「あなたに人並みの幸せを過ごしてほしいってことです。意地を張らず、人を拒絶せず、歩み寄って分かり合って、独りぼっちの孤独な悲劇じゃなくて、大団円の喜劇の中に居てほしいってことです」

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