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 叶さんは僕の言葉に、体をピクリと震わせた。

 そして、体が震えたその時から、叶さんは僕の肩に額を付けて、微かに体を震わせ始める。


「……僕のこれは僕だよ。僕でしかないよ……」


 じんわりと微かな湿り気を僕の左肩は帯び始めた。同時に叶さんは儚い声色で僕の紡いだ言葉を拒絶した。

 ただ、叶さんの拒絶は都合の良すぎる僕の解釈を証明することとなった。だからこそ、自分が今まで積み重ねてきた面子を守ろうとする叶さんにとって、その言葉は悪手だった。そうして弱々しく、すぐにも崩れてしまいそうな音の均衡を失った叶さんの無意味な言葉は頭の中に響き渡る。


「いいえ、違います。今のあなたは、本来のあなたじゃないはずです」


 壊れかけの崩れかけた叶さんのプライドを徹底的に壊すために、僕は力強く華奢な叶さんの体を抱きしめる。そして、すぐにでも壊れてしまいそうな叶さんの口から、色目かしい嬌声が漏れる。


「本当のあなたは、あなたの心通り、純白なはずです。誰よりもあどけなくて、誰よりも芸術を愛して、誰よりも優しい、誰よりも美しい人があなたです。傲慢で高慢な態度も、あなたが誰も傷つけまいと自らに着けた仮面でしかありません」


「違う……」


「違いませんよ。だって、あなたは今こうして震えているじゃありませんか。人は図星を突かれたとき、一番動揺するんですよ」


 弱々しい声で、端的な言葉を呟く叶さんを僕は全面的に否定する。

 この人はもう、自ら創り出した仮面に抑圧されて生きる必要はないのだから。誰とも理解し合えないと思い込んで、人との関係を断たなくても良いんだ。自分を抑圧して、抑圧し続けて、唯一残された最も大切な人との繋がりすら断絶される状況に置かれるくらいなら、仮面なんて取っ払って自由にありのままの自分で居た方が幸せなんだから。

 悲劇より喜劇だ。

 人生は時として悲劇に形容される。僕もそう思う。人生において明るく照らされている時間は、極々短く、照らされていることを認識した瞬間、既に明かりが、消えていることが大体だ。だからこそ、苦しいことだらけの穢土を生きる僕たちは、少しでも喜劇を演じた方が良い。悲劇に興じて虚無感を抱くよりも、短い喜劇を探し出す方がよっぽど良い。


「あなたは優しいんです。間違いなく優しい人です。けれど、その優しさが不器用なだけなんですよ」


「優しいからって何なんだよ……。優しくしても、人は僕から離れてゆくじゃないか」


 悲劇の中に沈み、自ら喜劇のスポットライトを拒絶する叶さんは悲痛な雰囲気を帯び始めた。

 それは過去が、この美しく優しい人を絡めとっているために生じた悲劇の演出だ。

 つまり、その悲痛さは嘘だ。本来の叶さんが纏わなくてもいい雰囲気で、叶さん自身を傷つけてしまうものだ。

 ただ、厭わしい存在だけれども、これを取り払うことは、叶さんの一種の挫折の記憶が原因のため酷く難しい。記憶自体を消すことは出来ない。特に嫌な記憶というのは、いつまでたっても頭に残る重荷だ。そんな枷を僕のような凡庸な人間が、一瞬にして取り払うことなど出来るわけがない。もしも、僕がメフィストフェレスを呼び出せたのなら幻を見せて、ほんの少しだけ気休めの嘘を見せることが出来ただろう。けれど、僕はただの人間だ。ファウスト博士ほどの知恵も無ければ、道徳的な信仰心もない。

 けれど、僕は僕が人間だということを理解している。

 なら、やることは簡単だ。

 僕は叶さんの体をより強く抱きしめる。


「痛いよ……」


 華奢な体は、貧弱な力しか持ちえない僕の力に耐えられないらしい。

 弱々しい声で叶さんは、僕に痛みを訴えてくる。そして、僕の腕から逃れようと身じろぎし始める。


「放してくれよ……」


 圧迫による痛みによって、叶さんはその力なき手で僕の腕を掴む。

 叶さんなりに力を入れているんだろうけど、痛みは一切感じられない。痛みよりも、病的な力の無さとより体を密着させることによってわかる体の薄さに対する心配に意識が向く。

 そういえば、今日、この人はご飯を食べたんだろうか?

 僕がご飯を作ると約束したけれど、紆余曲折あって僕は結局、作れず逃げ出した。

 なら、この人は今日一日、何も食べずにこの部屋に散らかる絵を描いていたのか?


「止してくれ。本当に痛いんだ。たまらないくらい痛くてしょうがないんだよ……」


「知ってますよ。知ってやってますから」


 命の維持に関わる突発的な疑問を浮かべていると、叶さんはいよいよ僕の腕の中で暴れ始めた。もっとも、力が弱い上に、動きもあまり激しくない。そのため、僕の拘束力の前では全くの無力だった。

 無情にも叶さんは、僕の腕の中に囚われる。

 けれど、ジタバタと暴れて抵抗しながらも、それを無碍にあしらわれる叶さんが不憫だ。

 だから、僕は一つだけ、僕の行動の意味を伝えた。


「良い性格をしてるよ。初めて会ったときは、あんなに臆病だったのに、今はこうだ。恥知らずな君には辟易するよ」


 叶さんは、無意味な抵抗を止める。

 そして、本気で僕のことを嫌悪する表情を浮かべながら、叶さんは僕を非難したんだろうと思う。 


「初めて言われましたよ。けど、それを言ったら叶さんも中々だったじゃないですか」


 ただ、やられてばかりいては僕の立場が危うい。

 茜色に照らされた中で、唐突に叶さんがやったことを僕は言い返す。


「あれは、君を測るためにやったことだよ。だから、僕は君を追い出したんだ」


「そうですか」


「そうだよ。だから、君のこれとは違うんだ」

 

「そうですか。けど、同じですよ。結局はこれも叶さんのそれも、原動力は思いやりですから」


 そして、皮肉めいた言葉も返す。

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