understand

 天賦の才を持たざる者が、初めから全てを持つ人間の卑下に抱く感情は決まりきっている。例え、それがどれだけ徳の高い人でも、きっと俗世間に浸かり切った人間と同じ感情を抱くに違いない。だから、過去の光さんの感情は僕の予測通りだと思う。大賞を勝ち取りながらも、浮かない表情を浮かべていたであろう叶さんに、光さんは腸が煮えくり返るほどの苛立ちを覚えたんだろう。

 ただ、不幸なことに叶さんからしてみれば、自らの反応は最も適切な反応だったんだ。叶さんは本気で、自分の描く絵よりも、姉であり自分の師と言っても差し支えの無い存在である光さんの絵が、優れていると信じていたのだから。加えて、光さんは人の感情を読み取る能力が著しく欠けている。それゆえに、叶さんは光さんにとって最悪の言動を取ってしまったんだろう。


「だから、大賞を取った時、僕は姉ちゃんに『姉ちゃんの絵が一番だよ』って無邪気に伝えたんだよ。僕の絵なんて、誰にでも描ける下らないものだと思ってたからさ」


「本当に言ったんですか?」


 予想をはるかに上回る叶さんの悪手に、僕は咄嗟に尋ねる。

 もしも、いや、克明に過去を覚えているのだから確実だと思うけれど、その言葉を叶さんが言っていたとしたら、光さんの自尊心は酷く傷つけられたはずだ。


「本当に言ったとも。本気だったんだからさ」


 半ば確信していたけれど、どこかでそうでなくて欲しいと願っていた微かな希望は、叶さんのまっすぐな言葉によって打ち砕かれた。


「それがどれだけ光さんを傷つけることだったのか知ってましたか?」


 嘘偽りのない純粋な言葉を向けてくる叶さんに、苛立ちを覚えた。

 それは光さんの過去を想像したために、生まれた苛立ちかもわからなかった。ただ、少なくとも、今この瞬間、僕は叶さんに対して腹が立っている。場違いこの上ない苛立ちだということは、分かっているし、もうすでに遅い苛立たしさであるということも分かっている。けれど、酷く勝手な自己満足だけれど、こうしないと光さんが報われない。

 だから、とげとげしい口ぶりで僕はわざと言葉を紡いだ。自己満足で、自分勝手な言葉を。


「知らなかったよ。まったく、本当に、何にも知らなかったよ。僕は本当に、僕の絵は下手くそで、姉ちゃんの絵は飛び切り上手い絵だと思ってたんだから。君もそう思うだろう? 君だって、自分の尊敬している人の絵は、自分よりもよっぽどうまく見えるときがあるはずだ。あんな狂気を含んだ独自の芸術を手にしている君になら分かるはずだ! いや、分からない方がおかしい。だって、君も天才だから……」


 ただ、棘の言葉は僕にも絡みついた。

 表情を歪め、その表情を見られないようにと、叶さんは僕の胸元に額を当てた。そして、初めて分かり合える人間に出会えた喜びと、分かり合えるはずの人間か拒絶されていることに対する悲しみの背反する二つの感情を込めた言葉を吐き出した。

 あり得ざる言葉だった。


「ち、違います。ぼ、僕は天才なんかじゃ……」


「いや、君は天才だよ。外村よりも上手く、自分を表現できる天才の一人だ」


「違う!」


「違わないよ」


 濁りの無い叶さんの言葉に、僕は閉口した。

 真っ直ぐに僕を見つめる双眸が、嘘ではないと嫌でも伝えてくる。

 信じたくない。

 僕は、僕自身がすでに自分の芸術を掴んでいたことを信じたくない。

 信じてしまえば、僕が今までやってきたことは叶さんよりも酷い奴になってしまうから。

 もしも、叶さんの言葉通り、僕が外村よりも自分を表現できているとしたのなら、それは五年前からずっと外村を傷つけていることになってしまう。それだけは認めたくない。僕は僕の憧れを、僕が羨望した存在を傷つけていたという事実を認識したくない。

 けれど、叶さんは、外村にして稀代の天才と言わしめた人は、僕が天才の一人であると言っている。紛うこと無き事実であると、言葉を濁すことなく伝えてきている。


「違う……」


 大きな苦悩と痛みが、僕の体を襲う。

 同時にどうして品評会の前日、僕の描いた狂気的な絵を出展させないよう、僕に光さんが仕向けたのか、その理由を悟った。

 ただ、その理由は叶さんの言葉を信じ切ればようやく証明できるものだ。だから、そうじゃないんだろう。いや、そうであってほしくない。どうして光さんが、僕の絵の出展を阻んだのかは、光さんの口から聞いていないから分からないんだ。なら、この理屈は現時点では筋の通った理屈とは異なる。だから、違うんだ。

 僕は無自覚に人を傷つけた訳じゃない。

 僕の挫折は、僕の勘違いだったわけじゃない。

 僕は天才じゃない。

 僕は凡庸で、未だ自分の芸術を手に宿していないあどけない画家の卵に過ぎないんだ。


「どうして君は自分の才能を否定するんだ?」


「……」


 叶さんの言葉を前に、僕の口は閉じた。

 体中が震えて、頭がおかしくなりそうだ。

 きっと、顔も人に見せられないような表情になっているに違いない。自分を罰する痛みに歪んで、ひしゃげた本当に愚かな者のくたびれた表情になっているに違いない。

 だから、叶さんも顔を歪めているんだ。


「だから、止めてくれよ、その目。僕に許された唯一の生業を侮辱するような、絵を描くこと以外何もできない僕を見下ろすような目を……」


 けれど、浅はかな僕はその理由すら見誤っていた。

 僕は、やっぱり、愚かにも無自覚に人を傷つけていたのか。それも自分が被害者だと思い込みながら。

 愚かにも程がある。救いようの無い大馬鹿者だ。


「ごめんなさい」


「それも止めてくれよ。謝る必要はないんだ。だって、僕らは愚かだから……」


 けれど、叶さんは僕を慰めてくれた。

 いや、それは慰めではなく、同情なのかもしれない。

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