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 嘔吐するように叶さんは言葉を紡いだ。

 言葉に交じる嗚咽から、僕は目を逸らしたいと思った。同時に、この人が今から言わんとすることは、この人の人生にとって酷く不幸なことだと悟った。それは自分の好きなことで、しかも、自分が最も敬愛する存在に導かれて手にした天職でもって、その人を傷つけてしまうことなのだから。

 こうしたことから僕は、叶さんが紡ごうとする不幸に満ち満ちた言葉を受け止められるのか、不安に思った。ただし、この不安はやっぱり僕の予測から発展したものに過ぎない。叶さんが紡ごうとする言葉を勝手に言い換えて、自分なりの解釈でもって、この人が感じ得てきた感情を測り取っているだけに過ぎない。これは傲慢だ。しかも、何の裏付けもない醜い傲慢だ。

 ならば、その傲慢を捨て去る義務が僕にはある。醜い塊を、偏見から生まれる予測でもって告白から逃れようとする僕自身の感情に蹴りを付けて、僕は叶さんの悲し気な口が紡ぐ言葉を受け止めよう。

 表情を変えず、僕は叶さんの潤む双眸を見つめる。相変わらずどんよりとした暗雲が、美しい瞳に漂っている。純粋無垢な美しさが損なわれているけれど、それでもなお美しい。


「僕は無邪気に絵を描き続けていたんだ。ずっとね。小学校以前から中学三年生に至るまで、ずっとずっと僕は一心不乱に、姉ちゃんの喜ぶ顔が見たくて描き続けてたんだよ。もっとも、姉ちゃんが中学に上がってからは、姉ちゃんは部活で忙しかったから一緒には描けなかったけどさ。でも、それでも、姉ちゃんに一枚でも多く絵を見てほしくって描いてたんだよ」


 重苦しい雰囲気の中でも、叶さんは心底嬉しそうな声色で過去の思い出を語る。

 この瞬間だけ、叶さんの双眸から澱みは消えていた。

 やっぱり、この人にとって光さんとの思い出は尊いもので、代えがたいものなんだ。


「それに、姉ちゃんは僕の絵を見ると実際、笑ってくれた。『上手』、『綺麗』、『美しい』ってさ。僕はその言葉を聞くたびに、もっと上手い絵を、もっと綺麗な絵を、もっと美しい絵を描いてあげようと思ったんだ。僕の原動力は、純粋なその気持ちだけだったんだ」


 叶さんは微笑みながら、僕の右胸に込めた力を和らげる。そして、僕の目を見つめ返す。けれど、叶さんの目には、僕じゃなくて僕を通して、過去の光さんを見ているようだ。欲しても、もう手に入らないものを望む様な目をしている。

 純粋な過去を欲す願いで、見つめる叶さんに僕は苛立ちを覚える。どうして苛立ちが生まれたのかは、僕自身よく分からない。けれども、僕は僕自身を見ていてほしいという汚い感情に侵された。そして、この汚らわしい感情は、今の状況下において最も無理解を示す言葉を想起させる。


「有名になりたいとかは、なかったんですか?」


 感情をこめず、僕は平坦な声色で叶さんに問う。

 僕の無理解を証明する言葉を聞いた瞬間、叶さんは緩めた力を再び籠める。僕の右胸は、再び力強く握られる。


「あるわけないだろ! 僕が望んだのは、姉ちゃんを喜ばせることだけだ! 家族なんて、評論家なんて、その他大勢なんてどうでも良いんだ! 僕は姉ちゃんたった一人のために、絵を描いてたんだよ!」


「それなのに、どうして今みたいな状況になってるんですか?」


「……」


 半狂乱の状態で怒りを迸らせた叶さんは、僕の言葉を受けて感情の動きにブレーキをかけた。そして、死んだような目で、完全に澱み切った眼で、僕を見つめる。

 ただ、それでさえ、僕は叶さんに魅かれる。


「それは全部、僕のせいだよ。僕が全部悪いんだ。僕があどけない気持ちで、無邪気な感情で、姉ちゃんの感情も知らずに絵を描き続けたせいなんだよ」


 これまでで最も力強く、叶さんは僕の右胸を握る。


「姉ちゃんは、僕にコンプレックスを抱いてたんだよ。同じ期間ずっとずっと絵を描いてるのに、一向に上達にしない自分と、僕とを比べてさ。けど、姉ちゃんは弟の僕に弱さを見せまいと、僕を喜ばせるために笑ってくれたんだよ」


 そして、緩やかに叶さんは力を弱める。


「けど、僕は何も知らなかった。僕は姉ちゃんが、本気で僕の描いた絵に喜んでると思ってた」


 叶さんは弱々しく、寂しい微笑を浮かべる。


「それに当時の僕は、姉ちゃんの方が何十倍も絵が上手いと思ってた。今もそう思ってるよ。姉ちゃんの絵には柔らかさがある。僕には無い優しさが籠ってるんだ。けど、それは世間には評価されないんだ。だって、それは思い出の温もりだから」


 天才であり、自分の芸術に絶対的な自信を持つ叶さんは、素直に光さんの絵を優しい声色で評価した。和らいだ表情から紡がれた言葉は、公平であり、主観的でありながら俯瞰的でもあった。そして、僕は叶さんが光さんに下した評価に絶対的な価値を見出した。

 叶さんの評論は、妙に腑に落ちた。確かに光さんの絵には、柔らかさと優しさを感じられる。けれど、光さんの絵には、紫のマスターが言っていたように魂が籠っていない。どこか上の空で、集中力の欠けた印象を覚える。だからか、叶さんの評論は至極真っ当間もので、光さんの芸術の今を示すこれ以上ない言葉だと、僕は思ったんだろう。もっとも、明確な理由は僕自身分からない。ただ、こういった理屈をつけないと、叶さんの言葉に込められた重みと奥ゆかしさを説明できないというだけなんだ。


「そう、だから僕は姉ちゃんが大学一年の時、僕が中学三年との時、こっそり、姉ちゃんにバレないように姉ちゃんが応募したコンクールに応募したんだ。僕と姉ちゃんの関係を今の関係にした名の知れたコンクールにね」


 大学一年生の時の光さんを僕は知らない。

 僕が芸術大学に入学したとき、光さんは三年生だった。だから、僕は僕と出会う二年前の叶さんを知らない。


「僕はどうせ姉ちゃんの絵が、大賞に選ばれるんだと思ってた。いや、確信していた。ご飯を食べる間も惜しんで描いた僕の絵よりも、姉ちゃんの絵はずっと美しかったからね。だから、僕は姉ちゃんの絵が一番で、僕の絵は二番だろうと確信してたんだよ」


 ぽつりと叶さんは、当時の自分の愚行を語った。


「だけど、現実は非情だった。結果は僕の絵が一番で、姉ちゃんの絵は賞すら貰えなかった。僕は目を疑った。僕みたいなやつが描く生半可で、精神性の無い絵が、大賞を取るなんてありえないんだからさ。姉ちゃんみたいに本を読んで、絵画や映画を鑑賞して、沢山の経験を積んだ人が描く重厚な絵が、僕に負けるなんてありえちゃいけない話だからさ」


 そして、叶さんの感情を逆なでする言葉に、当時の光さんが覚えた感情を感じる。

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