sad
涙ぐんだ瞳と、悲壮的な表情は、僕の印象に基づく叶さんの像からかけ離れている。傲岸不遜を体現した驕慢な凛々しさは、今の叶さんには宿っていない。
大粒の涙が、今にも美しい澱みの無い目からこぼれてきそうだ。孤高の天才が流す涙だ、きっと何かしらの才能が含まれているんだろう。もしもその一部でも、摂取できたのなら、僕は一瞬にして自分の芸術を掴めるだろう。いや、それで掴んだ芸術は自分の芸術じゃない。この人の、今にも泣きだしそうなあどけないこの人の残滓にしか過ぎない。だから、こんなことを望むこと自体が間違っている。
卑しい思考を叶さんの瞳に向けていると、叶さんは僕の頬に右手を当てる。そして、腹の硬い親指で僕の目元をゆっくりと、優しく擦る。整えられた爪が、月光に輝いている。指先から感じられる暖かな体温と、相反するような冷たい月の光が眩しい。
まばゆい冷たい光は、目をくらませる。けれど、青白い光の中でも叶さんの悲し気な表情は鮮明に見える。
「叶さん、どうしたんですか?」
触れれば壊れてしまいそうな人に、なるべく優しい声音を心掛けて呼びかける。
叶さんは僕の声にピクリとも反応せずに、僕の目元を撫で続ける。初めは心地よいと思っていた叶さんの体温は、徐々にくすぐったくてじれったい温度に変わる。けれど、叶さんがそんなこと分かるはずもなく、叶さんは僕の目元を摩り続ける。
「僕は、君みたいになりたい」
どこか懇願するような声色で、叶さんは僕の目をジッと見つめる。澱みの無かった目には、一叢の暗雲がかかり、純粋さを象徴する光を奪い去った。僕はこの目を今日、そして昨日も見たことがある。僕はこの目を知っている。そして、僕はこの目を前にして叶さんから逃げ出したんだ。
時折、叶さんは暴力的な衝動に襲われることがあった。もっとも、たったの二回しか経験していないことだから、知ったような口を利くことは間違っていると思う。けれど、たったの二回でもそれは僕の経験したことだ。そして、叶さんは暴力的な衝動を見せるとき、すなわち自分の逆鱗に触れられた時、今みたいな目をしていた。雲がかかったようなどんよりとした目を。
ただ、これまでとは違って、今の叶さんの目には怒りが籠っていない。僕のような凡人を徹底的に見下して、排斥して、自分に触れられたことを酷く拒絶する爛々とした燃えるような怒りの光は、今の叶さんの目には灯っていない。今、この人が持ち合わせている光は、幼少時代に感じる寂しさの光だ。この人のあどけなさの一側面を象徴するような光だ。
この光は、僕を惑わせる美しい光だ。けれども、この光はきっと健全なものではない。叶さんの創造を培った大きな土台となったことは間違いだろうが、それでも叶さんが持ち合わせるこの光は、昔に消えてなければならない光だ。けれど、完全に消してしまってはいけない。もしも、完全にあどけない光を消してしまったのなら、僕のような成長を停滞させる人間になってしまうのだろうから。だから、ほどほどに持ち合わせているのが丁度良い光で、その眩さを過信しない方が良いものだ。
僕の中から完全に消え去った光を懐かしむように、僕もまた叶さんと同様に左手で叶さんの目元を親指の腹で撫でる。叶さんは、これにビクッと少しだけ肩を震わせる。本来は、僕のような凡人と叶さんのような天才は、軽々しく触れ合ってはいけないのかもしれない。いや、この『かもしれない』が駄目なんだ。それは先入観に過ぎないし、人を自然に孤立させる要因になる。だから、罪悪感を覚える必要ない。それに、人が本当に不快に思っているかどうかは、当人にしか分からないことだ。だから、勝手に憶測をして、勝手に怯えること自体が間違っているんだ。その証拠に、僕が怯え続けてきた叶さんは、僕を今、拒絶していない。
「どうしてですか?」
くすぐったさのせいで、少しだけ上ずった声が漏れる。
「君のような凡人は、一人にならなくて済むだろ? 独りぼっちじゃなくて済むだろ? だから、君みたいになりたいんだ」
「僕だって一人でしたよ」
「違う。君は頼れる人が居た。本音を吐露しても、それを受け止めてくれる優しい人が傍にいたはずだ。姉ちゃんにしろ、外村にしろ、どっちもきみ自身の言葉をありのままに受け止めてくれたはずだ」
上ずる僕の声に反して、叶さんは悲痛な声色で自身の願いをこぼす。
けれど、その願いはとても簡単に手に入れられるような気がした。
でも、人の願いというのは他人からすれば簡単に見える場合が、大抵を占める。特に素朴な願いはそうだ。ほんの小さな幸福を手に入れることが難しい人だって、大勢いるのにもかかわらず。
特に、この人のような偏屈な人にとって、そんな簡単な幸福は最も遠いものなんだろう。
だから、叶さんの願いの重さを測れない僕は、微笑みながら叶さんの願いを聞き続ける。
「けど、僕のような天才にはそんな人間が居なかった。家族も、友達も、誰も僕の周りに居てくれなかった。不安で心が折れそうなときにも、悲しくて泣きたいときにも、落ち込んで死にたくなったときにも、誰も僕のことを気にかけてくれる人はいなかった!」
徐々に情緒が荒ぶって行く叶さんは、僕から離れる右手で僕の服を思いっきり握り占める。力強さと儚さの両方を含んだ独りぼっちの力が、僕の胸元にかかる。けれど、僕は何も言わない。それは僕が愚かで、この人の願いを測れないから。
「僕には家族以外、親しい人がいない。保育園に行ってた時から、僕はこういう女性的な性格に目覚めていたから、誰も友達になってくれなかったんだ。まあ、その子たち個人より、親の方針だったんだと思うけどね」
叶さんは遠い目をしながら、僕の知り得ない過去を、寂しさを纏いながら語り始める。
「けど、それでも、僕には姉ちゃんが居た。姉ちゃんは僕の光だった。いつも明るくて、誰からも慕われていて、友達もいっぱい作ってたし、僕と同じくらい顔が良い。そして、何より、僕と一緒に遊んでくれたから。小さいころ、姉ちゃんが中学に上がるまで僕と姉ちゃんは、ずっと一緒にお絵描きをして遊んでた」
けれども、光さんの印象を語り出したその瞬間から、叶さんの雰囲気はにわかに明るくなる。同時に、叶さんがいかに光さんを信頼してるかを理解した。そして、叶さんが画家になることのきっかけも。
「それで、叶さんは画家に?」
果たして僕の憶測が、そのまま正しいことかは僕が知る由もない。
だから、僕は尋ねる。今ここで、尋ねなければ、探らなければこの人がこの人たる訳を知ることが出来なくなってしまうだろうから。
「そうだよ。僕が画家になろうと思ったきっかけは、姉ちゃんとのお絵描きだよ。姉ちゃんは、僕が描いた絵を見るといつもいつも笑ってくれたし、褒めてくれたから、だから僕は絵描きになろうと思ったんだよ」
どうやら、僕の予想は正しかったらしい。
けれど、予想が的中してほんの少しだけ喜ぶ僕とは反して、叶さんは寂しさを帯びる。
「けど、僕がその道を歩んだせいで、僕は姉ちゃんを無自覚に傷つけたんだ」
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