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「君、作者だろ?」


「作者ですけど、自分で描いたとは思えないんですよ。凡庸な風景画しか描けない人間が、こんなグロテスクな絵を描けるとは思えないんです」


 自分と同じように、僕が僕自身の描いた絵を見ているさまに叶さんは疑問を呈した。

 その目は僕が嘘を吐いているのではないかと、疑う視線だった。

 心地よくない視線に、不快感を覚える。けれど、確かに自分が描いたの絵を作者自身が、鮮烈な衝撃を抱えながら鑑賞すること自体がおかしいことだ。だから叶さんが僕に向けてくる疑惑の眼差しは、間違っている訳ではない。

 ただ、弁明をしたのだから許してほしい。信じてもらえなくともいいから、とりあえずその矛を今は収めてほしい。こうやって当事者に頼らなければ、今僕がここで自分の無罪を証明することは出来ないから。もっとも、言葉にしなければこのことを伝わらない。けれど、今ここで言い訳じみた言葉をさらにかけることになってしまえば、僕に対する疑いはより深まるだろう。

 僕は僕自身の憶測から、口を閉じてしまった。頑固に閉じた口は、動かず、ただ向けられる猜疑の視線に悩まされるだけだ。継続的に表皮を傷つけられるような視線は、僕の表情すらも固める。僕自身が感じる緊張は、最高潮を迎える。


「そんなに緊張するなよ。安心しなよ、僕は君が描いたってことを疑ってないよ。ちょっとしたジョークだよ」


 張り詰めた緊張は、叶さんのあっけらかんとした笑みによって片付けられる。

 偏屈な印象からかけ離れた砕けた笑みと、冗談が混じり合った叶さんの言葉は、僕の心を安らげる。和らいだ心は、僕の口から安堵の溜息をもらす。ただ同時に、傍若無人な叶さんに対する苛立ちが緊張の代わりに浮かび上がる。


「そうですか」


「苛立つなって。君のような人間をからかうにはこういった調子が、一番良く効くんだよ」


「だったらやめてくださいよ。こっちは心臓が張り裂けそうだったんですから」


 苛立ちを隠さず、僕は率直に文句を言う。


「君の心臓がどうなろうと僕の知ったことじゃないよ。僕は僕自身が楽しめればそれで良いのさ」


 けれども、叶さんは相変わらずな態度を取る。

 嫌悪感を向けられようとも、平然と出来るほどこの人の心臓は強いらしい。

 正直言って、非難を臆することのない心臓は羨ましい。恐れることなく未開の地を突き進める強心臓が、僕も欲しい。もっとも、叶さんのような人の情緒を汲み取れない心臓は要らない。

 稀代の天才の心臓ではなく、外村のような人と分かり合える心臓で僕は良い。

 いや、これは外村に失礼だな……


「だから、そんな目で見つめてくれるなよ」


「そんな目?」


 どうやらまた僕は、知らず知らずのうちに叶さんの傷つける目を宿していたらしい。

 ただ、二度目であっても僕は、僕自身が今どんな目をしているのかが分からない。自分のことを棚に上げていたけれど、僕もまた叶さんと同じように人の情緒、自分の情緒すらも汲み取れない人間なのかもしれない。

 自分の目が分からない。

 どういった形で、変容しているのかが分からない。

 だから、僕は愚かにも右手で自分の目を覆う。これで叶さんを傷つけなくて済むのだろうから。


「止してくれよ。まるで僕が馬鹿みたいじゃないか……」


「けれど、こうしないと僕は無意識にあなたを傷つけてしまいます。僕はあなたが傷ついているさまを見たくないんです。美しいあなたは、美しく気高いままであってほしいんです」


 叶さんの弱った声に、無意識的に僕はキザな言葉を吐いた。

 思いついたままの言葉は、僕の体に恥による熱を生み出し。体中が燃えるような羞恥の熱だ。さして暑くないのにもかかわらず、急激に温まった僕の体は汗をかく。

 それから暫時、僕と叶さんの間には沈黙が満たされた。

 沈黙を生み出す原因となった僕が、言葉を発することは出来なかった。その上、自分から動くことも出来なかった。いや、出来なかったというよりも、動く権利が無いと言った方が正しい。自分が壊した空気を悪びれもせず、相手のことを考えずに直そうとすることは愚かだから。

 気まずい無言の中で、叶さんの呆けた顔を掌の暗幕に想像しながら、叶さんの言葉を待つ。二人の呼吸音が、乱雑に散らかった部屋の中で、唯一の音として響く。


「君は僕をそういう目で、見ていたのかい?」


 そうして沈黙を破る言葉が、ようやく叶さんの口から紡がれた。

 けれども、叶さんのその言葉は返答に窮するものだった。

 それは、僕の答えが、およそ叶さんの望みに適っているものでないと分かっているから。

 叶さんは僕に、『そうではない』と言って欲しいのだと思う。美しい人として見るのではなく、芸術家の一人として見てほしいのだと思う。気難しいこの人は、見てくれで判断されることは嫌いだろうから。

 これもまた憶測にすぎない。凡人の世界の中で、考える天才の虚像に過ぎない。

 しかし、天才の虚像であっても、つい最近まで堕落と停滞に身を置いていた臆病者の行動を阻むことにはよく作用する。だから、僕は再び閉口して、堅苦しい緊張を顔全体に纏わせる。

 顔を覆う緊張は、目元を隠していても叶さんに伝わっているはずだ。けれど、叶さんのような人の情緒を汲み取れない人は、表情だけで僕が思っていることは理解できないと思う。だから、言葉で言わないと。言葉ではっきり言わなければならない。

 言葉で?

 瞬間、僕は叶さんが傲慢で高慢な態度を取り続ける理由が分かった。

 一条の光は、僕が叶さんに対して抱いている疑問の影を全て照らし出し、未確定ながらも確固たる解を僕に与えてくれた。同時にこの人の態度に、批判的であった自分自身の無理解を恥じた。そして、天才と凡才とで、叶さんと自分が全くもって違う人種であると認識していたことが、恥ずかしくてたまらなくなった。叶さんも、僕も、人なんだ。

 叶さんは、誰よりも美しい人なんだ。

 無垢で、潔白な美しさを保ち続ける人だ。

 外村にも通じるあどけない好奇心を、より鮮明に持ち続けている人なんだ。

 だから、僕はこの人に見惚れたんだ。

 なら、僕の認識は不純ではない。

 それなら、はっきりと言ってしまおう。


「ええ、僕はあなたを美しい人と見ています。特に心が美しい人だと」


 微笑ながら言葉を紡いだ瞬間、叶さんはとびかかるようにして、僕の暗幕を無理やり引きはがした。


「本当かい? 僕はこれで良いのかい?」


 勢いに任せて僕らは後ろに倒れる。

 背中と後頭部に痛みを感じる。

 ただ、弱った叶さんの表情に僕は吸い込まれる。

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