mad
身に覚えのない事柄だ。
僕は光さんに絵を預けたことも贈ったこともない。
なのにもかかわらず叶さんは、光さんから僕の絵を受け取ったと言っている。それに僕は狂気的な絵なんてただの一度も描き切った覚えがない。今も昔も、僕の手に宿る芸術が描き切れる絵は陳腐な風景画だけなんだ。
いや、待て。
違う。僕にも狂気的な絵を描いていた時があった。外村と共に新しい芸術に挑戦しようとしていたあの頃、僕は十五枚の人物画を描き切った。けれど、その絵は全てがらくた塗れの押し入れに入れたはずだ。いや、押し入れに入れたのは僕じゃなくて光さんだ。そしてあの日の朝、光さんはどうしてかキャンバスバッグを持っていた。訪れた時の無いに等しい荷物に加えて、大きなキャンバスバッグを一つ持っていた。あの中には、何が入っていたんだ?
いや、ここまで来たら疑問に思うこともない。
光さんが持っていたキャンバスバッグの中には、僕が描いた十五枚の人物画のいずれかが入っていたんだ。そして、僕に黙って持ち出した僕の絵を光さんは、この稀代の天才様に見せたんだ。それ以外に僕の絵を見る機会なんて無いのだから。個展を開けるほどの作品も無い上に、知名度もない人間の作品は、そういった勝手な取引でしか見ることが出来ないのだから。
知名度が無いと自分で言うと悲しさが胸に籠る。
未だ芸術は手に宿っていないことの証明は、自身の芸術を大成させるための途方もない道程を見せつけられるのだから。ただ、遥か遠い道のりを歩むことに覚悟を決めて、僕は今ここに居る。だから概念的に感じた厳しさから逃れるようなことはしない。
「潮? 答えてくれるかい?」
とぼけた表情をして、僕は思いに耽っていたんだろうと思う。
だから気の抜けた僕に、叶さんは不機嫌に見つめているんだろう。
「多分、僕の絵だと思います。けど、実際に見てみないと分かりません」
叶さんの言動に対する表現は、全て憶測の言葉に過ぎない。
確証の無い僕は、未確定な言葉を漏らす。
「そうかい。それなら、今アトリエから絵を持ってくるからさ、少し待っててくれよ。まあ、すぐ戻ってくるからちょっとくつろいでてよ。ソファも何もないけどさ」
どっちつかずの言葉に、叶さんは首を傾げ、眉間に皴を寄せた。
けれども、ほんの一瞬間後、叶さんは顎先に指をあてて、思い悩む仕草をした。そして、またその後、叶さんはいきなり立ち上がり、こみ上げる好奇心に従った明るい表情を見せた。何事かと僕は戸惑ったけれど、驕慢な人のあどけない表情がその戸惑いを打ち消してくれた。
子供っぽい言動を見せる叶さんは、僕の返事を聞くはずもなく、アトリエに向かって走り出した。どたどたと、僕が住んでいるボロアパートじゃ出せない音を立てながら無邪気に走って行く。その様子に、僕の頬はいつの間にか綻んでいた。
ただ、どうしてあの絵が、叶さんの興味を引いているのか分からない。あの絵は僕が純粋で新しい芸術を求めるために描いた絵だ。そういった絵は、天才の感性を刺激するものなのかもしれない。けれども、あそこまで興味を示すほどの絵じゃないはずだ。もっとも、五年間、あの絵を見ていないから今の僕から見て、あの絵がどういった絵に見えるのか分からないから、一概に興味を示さない絵として片付けることは出来ない。
真っ黒なベルベットの上に、微かに光る石を乗せたような夜空を見上げる。そして、真っ暗な空に、かつての描いた人物画をぼんやりと思い浮かべる。どういった色彩で、どういった構図で描いたかは微かに覚えている。けれども、明瞭な像が思い浮かぶことは無い。記憶に蓋をした成果もしれない。
薄暗い孤独の中で、感慨に耽っていると、再び慌ただしい音が耳に入った。そして、叶さんが一枚のカンバスを抱えてリビングに入ってきた。普段から運動をしていないせいか、叶さんの息は上がっていて、額には玉のような汗をかいている。
けれども、僅かな距離の運動で息を上がっている叶さんの表情に疲労は無い。自分の興味が示した事柄を突き詰める獣のような貪欲な姿勢だけが、浮かび上がっていた。有無を言わせない叶さんの表情に、ほんの少しだけ恐れを抱く。だけど、やっぱりほんの数秒後に、僕は光さんに見惚れてしまう。何がどうして僕をこうさせているのか分からない。
「どうしたんだい? そんなに見つめて」
「別に何でもありませんよ」
偶然、目線がぴったり合うと叶さんは、整わない息を無理やり整えて息苦しく言葉を紡ぐ。
瞬間、僕は突発的な言葉を紡ぐ。
「そうかい……」
どうやら僕の声に、叶さんは初めから興味が無かったらしい。だから、簡素な言葉をぼそっと漏らすだけだった。そしてすぐさま息を整えるための深呼吸をする。けれど、すぐに息が整うわけでもなく、叶さんは変わらず肩で呼吸をする。
それから数十秒、叶さんは落ち着いて深呼吸をした。
叶さんの呼吸は落ち着く。そして、最後に大きく深呼吸をすると、僕の傍らに歩み寄って叶さんは座る。汗ばんでいるのにもかかわらず、叶さんに不快感を覚えることは無い。むしろ何か煽情的な気分になる。
ただ性的な感覚は、叶さんが持ってきた一枚の絵にすべて吸い込まれることとなる。
叶さんが僕の前に提示してきた絵は、間違いなく僕が五年前に描いた絵だ。けれども、それは僕が描いたとは思えない絵だ。色彩も、構図も、丸々全部僕の記憶通りなのに、この絵は僕から乖離している。中心にはモチーフとした背を向ける全身が歪んだ白いワンピースを纏った女性、その背後にはダイナックにうねる白雲、粘性を帯びているような藍色の海、全てを飲み込むかのように渦巻く太陽、おどろおどろしい紅と紫の空、僕が描いたとは思えない狂気がそこにある。
「これ、君の絵かい?」
目を輝かせながら尋ねてくる叶さんに、これを描いた人間が僕だと断言することを僕はためらう。
自分の認識と大きく離れた絵だからだ。
けれども、この絵を描いたのは間違いなく僕だ。あの時、使っていた絵筆も、パレットも全て僕の家にある。だから、この狂気的な絵を描いたのは間違いなく僕だと断言できる。
「はい。僕が五年前に描いた絵です」
だから、僕は僕自身が描いた絵だと断言する。
「そうなんだ。これは君が描いたのか……」
艶やかな顎を摩りながら、叶さんは鋭い視線で僕の描いた絵を見つめる。
僕も過去の自分が描いた絵をジッと見つめる。
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