question

 光さんが片付けたはずのリビングは、丸められた大量の紙で汚されていた。今朝、僕が絵を描いていたテーブルの上には、無数の鉛筆とクレヨンが転がっていて、卓上が全て埋め尽くされていた。

 たった一日で、ここまで汚せるのは才能だと思う。

 ただそれ以上に、たった一日でここまで多くの絵を描いた方に僕の驚きは向く。僕のような人間では、これほど膨大な数の絵を描く集中力は持たない。数枚描いた時点で、集中は途切れるし、何より手に疲労が溜まって絵筆や鉛筆が持てなくなる。

 けれども叶さんは、雑多に散らかった部屋の中で、女性のように座るこの人は、凡庸な僕に到底できないことをやって見せている。だからこの人は、若くして自分の芸術を大成させているんだ。自分という存在を、克明に描画する芸術を手に宿しているんだ。


「それで?」


「それでと言いますと?」


 男性にない魅力を感じさせる叶さんは、煽情的な座り方をしながらぼんやりと窓の外の月を見上げながら、僕を詮索する言葉をこぼす。

 詮索されるいわれはないはずなのに。

 インターホン越しに、僕は僕がこの家に赴いた理由を言ったはずだ。それ以上もそれ以下でもない。僕がここに来た理由は、この人を看護するためであるし、この人のストレスから病を何とか解決させるために来た。とはいえ、一度はこの人の前から逃げ出した人間が僕だ。傲慢な叶さんの逆鱗に触れて、理不尽な激昂を浴びせられて逃げ出した。拭い去れない事実だ。

 過去の出来事は、人を見る目に大きく影響する。大概は悪い方向に傾く。そして、この悪い印象を拭い去るためにはそれ相応の態度を見せなければならない。けれども、僕はそれ相応の態度を知らない。人に関わってこなかったからどういう応対が、誠意を見せるために最も適しているのか分からない。社会から隔絶されているというのは、世間知らずを生むらしい。

 人と付き合うことを拒絶してきた人間のとぼけた対応に、叶さんは頭を抱えてため息を吐いた。それは僕の無理解の愚かさが含まれたため息だ。この失望の意を前にして、僕は動くことが出来なかった。それほどまで僕は失望の雰囲気を纏う叶さんに、見惚れているんだ。


「誰にそそのかされたんだ? 外村か? 姉ちゃんか?」


 失意を顔に浮かべる中で、鋭い詮索の視線を叶さんは僕に向けてくる。

 猛禽類のような鋭い視線は、愚かしくも社会を知らないとぼけた僕に真っすぐと突き刺さる。けれども、叶さんの視線は脅迫的な意味を持たない。それは僕が嘘を吐いていないということもあるし、この人の鋭い雰囲気に見惚れているということもある。

 どうしてか、この人の敵意は美しい。

 けれども、美しさに見惚れてばかり場合ではない。

 僕はこの人に、自分の愚かさを弁明しなければならないのだから。


「いえ、僕の単独の判断です。誰にも流されてない僕の確固たる判断ですよ」


「マジで言ってるの?」


 真摯な僕の弁明が伝わったのかは分からない。

 いいや、絶対にこれは伝わってない。

 伝わっていたとしたら、この人はこんなとぼけた顔をしていないはずだから。


「マジですよ。大体、僕があなたに嘘を吐いて何の得になるんですか?」


「まあ、確かにそれはその通りだ」


「でしょう?」


 愚かな僕に対する弁明は成功した。

 もっとも、この弁明が最良の選択だったのかは疑問が残る。

 何せ叶さんは、今も頭をもたげているのだから。

 ただ、何はともあれ叶さんが僕に対して抱いていた誤解は解けた。


「でも、そうなると君はいよいよ変人だ」


「そうですか?」


「ああ、そうだよ。自分で言うのも何なんだけど、こんな性格の奴の世話をするなんて余程の物好きだよ」


 自分の顔を指さし、叶さんは美しい顔を怪訝に歪ませる。

 美麗な人の喜劇染みた表情は、僕の微笑の琴線に触れる。おかげで僕の頬は綻んで、クスリと微笑が漏れる。


「何を笑っているんだい?」


 急に表情を引き締め、叶さんは太ももに頬杖をつく。

 豹変する叶さんの様子に、僕の口からこぼれる微笑は大きさを増す。けれど、僕自身の微笑が叶さんの機嫌を悪くさせていることだと僕は知っている。だから何とか抑えなければならない。でも、ただ、僕はこの感情を収めることは出来ない。収めることが出来ないから、笑いはより零れる。そして叶さんは、より不機嫌になる。

 自分の生理的な反応と、叶さんの対応に微かな理不尽を覚える。


「いえ、ただあなたの反応が面白くて」


「そんなに面白いことをしたつもりはないんだけどね」


 そして理不尽の結果は、不貞腐れるという結果だった。


「まあ、良いや。丁度、僕も潮に言いたいことがあったしさ」


「言いたいこと?」


 ほんの一呼吸の後に、叶さんは普段のどこか俯瞰した態度に変わった。

 そして叶さんは髪をかき上げて、興味深そうに僕を見つめる。


「うん。松野潮って昔聞いたことがあってね。昔、姉さんがある一枚の絵を持ってきたんだよ。今も覚えてるよ、あの狂気的な絵。その絵の作者が君なのかっていう確認だよ」


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