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行よりも空いた電車に揺られ、繁華街と真逆の雰囲気の薄暗い住宅街を歩いて、僕はもう一度、数時間ぶりに叶さんの家に着いた。
相変わらず四角く、外見の無機物感からは生活感が感じられない。建築物という様式にぴったりとはまっていて、人が住んでいるとは思えない。ただ住宅街の一角にあるコンクリート製の無機質な箱という印象しか受けることが出来ない。何より、リビングの電灯も、アトリエの電灯もついていないことが、工業的な建築物の様相をより醸し出している。
けれど、この無機質な空間には誰よりも有機的な芸術を生み出す芸術家が住んでいる。傲慢で偏屈な美しい芸術家が。
一度は拒絶され、今も目の前の建造物が間接的に僕の侵入を否定してきているように思える。僕のような才能の無い凡才の侵入を、叶さんの天才的才能が拒んでいるように感じられる。あくまでも僕個人の感触に過ぎない。
だから、きっと、これは幻覚だ。
脆弱な精神をこれまで抱えてきた人間が見る自己暗示的な幻覚に過ぎない。僕の弱々しい本能は、知らず知らずのうちに覚悟から逃れるための理由を探しているだけなんだ。
逃げてはいけない。
覚悟をもって僕は紫から出てきた。新しく紡いだ外村と光さんとの関係は、僕の確固たる覚悟が前提の関係なんだから。それに僕はもう、この関係を崩したくない。二度と心地よい温室の鳥籠の中に戻りたくはない。
だから本能が見せる幻覚に打ち勝って、今やるべきことに挑戦するんだ。
いや、挑戦じゃない。
選択の自由は僕に与えられていない。これは義務だ。僕自身が願う者になるための義務なんだ。
「だからやるんだ」
自由の選択の拒絶を自分に言い聞かせ、本能による幻覚から覚めるように心がけ、僕は汗ばむ手と震える足、冷や汗をかき続ける体に鞭を打って叶さんの家のチャイムを鳴らす。
「誰?」
カメラ付きのチャイム越しに、感情の籠っていない叶さんの声が聞こえてくる。
「潮です」
冷酷な印象すら覚える叶さんを前に、僕は全身を律して、今にも情けない声を吐き出しそうな口をいつも通りに動かす。
もしかしたら、声は震えているのかもしれない。
けれど僕は自分の声が、普段通りの声だと思っている。
なら、それで通そう。勘違いも時には重要だ。
「ああ、潮君ね。それで何の用?」
強烈な個性と自我を放つ人の問い詰めるような声色は、未だ情けない僕の脆い精神を揺さぶった。
御託を必要とせず、いきなり本題に入り、不要な言葉を排斥する叶さんの態度にどうしても僕は臆する。出そうと思った言葉は、喉に詰まって不規則に声帯を震わせる。
何もなかったとしても、僕と叶さん気まずい雰囲気だ。根本的に僕とこの人は馬が合わないんだ。なのにもかかわらず、現状はシンとした夜の住宅街の仄暗さと、冷酷な叶さんの態度が組み合わっている状況だ。不得意が掛け合わされ、棘を纏った雰囲気が僕を包む。精神的な痛みが絶え間なく、脆い僕の心を傷つける。
けれど僕は逃げ出さない。いや、逃げ出せない。
ここで逃げ出してしまったら、僕はもう一度、しかも今度は温室にすら入れない状況に置かれる。
冷たい金属製の惨めな鳥籠の中に入ることを余儀なくされる。
だから、どれだけ精神的に傷ついても良いから、僕は言葉を紡がなければならないんだ。
「あなたの看病に来ました。もう逃げ出しません」
「へえ……」
僕の言葉が信じられないのか、人を失望しながら試すような言葉にならない言葉を漏らした。
不甲斐ない僕の心臓は破裂するほど脈打ち、心は弦のように張り詰められた緊張感が支配する。
死にそうだ。
どうしてここまで緊張するのか、自分でも分からない。
大学受験の時もこんなことは無かった。他人と話す時もこんなことは無かった。なのに、この人と話す時だけは、胸が張り裂けそうなほど緊張する。訳が分からない。
ああ、どうか、一刻も早くこの苦痛がなくなってくれ。
「まあ、良いよ。とりあえず入りなよ。いつまでも外に居られても困るからね」
きっと震えていた声に、光さんは適当な理由を付けて納得してくれた。
同時にどこか投げやりな叶さんの声は、僕の胸を支配する強烈な緊張感を一気にほぐしてくれた。そして僕は胸を深呼吸と共に、撫でおろした。するとガチャリと、玄関の鍵が開く音が耳に入った。
どうやら叶さんは、本当に逃げ出した僕を家に入れてくれるらしい。
「お邪魔します」
「本当にお邪魔だよ」
叶さんの厚意に甘えて、家に入った瞬間、叶さんは思っていることをそのまま吐き出してきた。
朝と変わらない格好で高圧的な態度を取る叶さんに、僕は苦笑いを浮かべることしかできない。
「とはいえ、珍しいよ。姉さんが今まで連れてきてくれた人たちは、僕から全員逃げ出して、絶対に戻ってこなかったからさ。それどころか僕のアンチになる奴すらいたよ。SNSだとかにあらぬ噂を投稿したり、全く的外れな批判をしてきたりね」
乾いた笑い声を漏らすだけの僕に、叶さんは高圧的な態度を保ちながらも笑ってくれた。
もっとも、光さんが笑いながら言った言葉は中々尖っている。
「それは酷いですね」
「だろう!? ろくでもない奴らさ。天才の相手を出来ないからって、逃げ出して、その腹いせに僕を非難するなんてさ。自分で納得して、自分で来てるくせにさ」
「それも酷いですね」
傲慢で美しい人は長い髪を撫でながら、僕の言葉にムッとした表情を見せた。
「……どうしてだい?」
「傲慢すぎるんですよ」
「傲慢で何が悪いんだい? まさか聖書の言葉を引用するつもりじゃないだろうね。共産主義者じゃないけれど、あれはまやかしだと思うよ。信仰するに値する書物だと思うけれど、盲目的に従うものじゃないよ」
腕を組みながら、ある方向に喧嘩を売る言葉を叶さんはやっぱり傲慢に吐き捨てる。
どうしてこの人は、ここまで傲慢さを増長出来たんだろう?
親は、光さんは、何も言わなかったんだろうか?
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