only

 熱を含んだコンクリートは、冷たいはずの夜の空気を変に温め、街に生ぬるい空気で満たしている。街灯と店の明かりが俗っぽく輝き、夜の街を演出する。仕事終わりのサラリーマンやOL、部活帰りかバイト終わりかの大学生がせわしなくひと時の宿り木を探して、慌ただしく動き続けている。

 人は混沌としている。

 混ざり合って動き続けている。

 何かを求めて、一時の現実を忘れられるところを求めて。

 避け続けてきたこの歩きづらい人混みを、初めて理性的に歩いて分かった。この人たちも僕と同じだ。

 現実から逃れたくて、辛い現実から逃れるために動き回っているに過ぎない。一時でも辛い現実を忘れられるように、ほんの少しでもやるべきことから目を背けられるように、そして痛みをから逃れるように。

 光さんの言葉は正しかった。

 人混みと外気の蒸し暑さは個人的に最悪の環境だ。けれど、不快なこの環境は僕が今まで感じてこなかったことを教えてくれる。きっと、この世界には、僕が避け続けてきたあらゆる事柄には、こうした隠された学びがあるはずだ。何気ない景色も、下らない会話にも、何もかもに意味が合って、そこには芸術を大成させるためのヒントが隠されているはずだ。だから多くの経験は、いつの間にか変容して自分の表現に現れる。

 外村がそうだ。

 あいつは僕のしてこなかった経験を幾重にも重ねてきたはずだ。そしてその目で、その手で、触れてきた様々なものからあいつは芸術を感じ取ってきたはずだ。こうしたどこにでもあるような繁華街にでさえ、芸術があるのだから。

 退廃的な芸術かもしれない。けれど、それでもこの繁華街は芸術的だと言えると思う。いや、それどころか市民のための芸術の集大成なのかもしれない。チェーン店の見慣れたデザインの軒先と看板、フランチャイズのコンビニ、その間にひっそりと佇む個人経営のこぢんまりとした飲食店、これは全て市民のために思って作られたものだ。そして、市民のために作られた夜空に爛々と輝くはずの星すら消し去る景色こそ、市民のための芸術なのかもしれない。

 それならこの景色を描くことこそが、僕の芸術の大成となるのか?

 いや、それはあまりにも短絡的すぎだ。大体、その程度で僕が外村に羨望して、蜘蛛の糸と認識していた希望と見ていた芸術が手に入るのならば、僕はきっと昔に手に入れていたと思う。だからこんな短絡的な考えをもってして、僕が望むあの芸術が手に入るわけがない。

 なら、どうすれば良いんだ?

 僕は何をもってして芸術を手に入れることが出来るんだ?

 いいや、そんなことは分かり切っている。焦る必要はない。またあの時のように、一時の誘惑に負けるだけだ。

 今は辛抱強く、経験を積んでいくことが大切なんだ。さっき自分でも言っていただろう? 何を焦る必要がある。外村も、叶さんも、特別なだけなんだ。だから、そう、凡庸な僕は今から必死にもがき苦しんで、自分の求める芸術に手を伸ばすんだ。そのためなら、喜んで今を犠牲にしよう。その犠牲こそがきっと僕の手に、僕にしか表せない芸術を宿してくれるのだから。

 柄にもないことを考えながら早歩きしていると、いつの間にか駅に着いていた。

 結局、周りが見えていたのは店を出てから数分だけだ。冷静になったところで、意識が向いたのは内側だった。けれど、僕は僕自身を改めて見つめられた。そして求める芸術に対するヒントもなんとなく得られたと思う。だから、今は自ら求めたヒントに従って、あの人のところに行こう。叶さんなら、あの傲慢で美しい人なら僕の糧になってくれるだろうから。


「さあ、行こう」


 ぼそっと、誰にも聞こえないようにつぶやく。

 そして僕は無数の人が出入りする駅の構内の足を踏み入れる。

 傍から見ればただの駅構内を歩く人だ。

 けれど、今の僕は覚悟の人だ。

 前とは違う人間だ。

 でも、肩が擦れ合う人たちと同じ人間だ。だから、僕は結局歩く人なんだ。

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