sun

 懐かしい思い出は、今の僕を痛めつける。

 そして今も、僕の足は玄関に向けて動こうとしている。

 夜の色が強まって、酒気を帯びる心地いいはずの空気が、僕の肺を犯す。飲んでいないのにもかかわらず、アルコールの毒性が頭に回って、酷く悪い気分になる。吐き気すら覚える。

 腹の底からこみ上げる不快感は景色を、あの時と同じように混じり合って色の塊にする。


「そんなこともありましたね……。まあ、何はともあれ。久しぶりだ、松野。元気にしてたか?」


 顔を見ないよう現実から逃れ、成長から逃れ続ける僕に外村は、暖かい声音で再開の挨拶をしてきた。

 あまりにも優しすぎるあいつの言葉は、僕の矮小で、脆い、たった一人しか心を許せない心に突き刺さる。自分の不得意なことに挑戦することから逃げ出した僕を、どうしてこいつはこんなにも優しくしてくれるのだろう。

 どうして外村は、逃げるだけの人間に優しいんだろう?


「潮。黙りこくってないで、何か言ってやれよ。久々の再会がだんまりなんて、流石に悲しいだろ? なあ、仁?」


「相変わらず酔うと怠いですね、光さん」


 それに、どうして光さんはこんなにも残酷なんだろう。

 酒気が回って胡乱とした光さんの言葉は、酷く冷たく、尖っている。どこかで僕を嘲ている印象すら覚える。誘っておいてそれは無責任で、むごたらしい所業だ。いや、誘いに乗ったのは僕か。自分の責任で、成長の停滞をここまで引きずって、自分の芸術を大成できずにいる。過去の関係に縛り付けられて、成長の絵筆を手折り続けたのは僕でしかない。

 言い訳をし続けて、自分の手を何もできない木偶の棒の手だと言ってきたのは僕自身でしかない。

 なら、現状を変えることが出来るのは僕だけだ。

 逃れることは簡単だ。目を背けて、かつて貴い関係を壊して作り上げた歪な関係に縋れば良いだけなんだ。不健全で依存しかけているこの関係は、その耽美的な雰囲気からか心地が良い。だからこそ、縋り対いて成長から逃れ続けてきた。光さんという太陽の下、一定の心地よい温度が保たれる温室の中の鳥籠に入り続けてきた。外界の厳しさを知っていたから、これ以上傷つきたくなかったから。挫折をしたく無かったんだ。失敗しても慰めてくれる人が傍に居てくれないと不安で仕方が無いんだ。誰かに肩を支えてもらわなきゃ歩けないんだ。

 飛び方を忘れた翼は、脆くて弱い。

 目も暗さを忘れている。

 美しいはずの羽も鈍く澱んでいる。

 けれど、それらは鍛えれば美しくなるはずだ。温室から抜け出して、未開の外界に飛び出せば元の強さを取り戻せるはずだ。それがきっと僕を成長させてくれる。少なくとも外村が作り上げた理想の芸術を、僕の手に宿すことが出来るはずだ。

 今の僕に必要なことは、知らない世界に飛び出て、傷つくことだ。


「怠くないだろ。本当のことを言っているだけだよ。それに全部、飲みの席の冗談で片づけられるだろ?」


 ケラケラと僕の太陽は笑う。


「それでどれだけ自分を傷つけるんですか」


 そして僕のあこがれが心配する。


「傷? 一夜の過ちは全てを忘れさせてくれるんだよ。あいつに対するコンプレックスとか、広がらない表現とかのね」


 外村の心配に光さんは、自分を皮肉る言葉を紡ぐ。

 気だるい酒気と共に光さんの口から漏れ出した皮肉は、僕にも向いているような気がした。あの日、あの夜、一夜の過ちは、僕が本来経験してこなければならなかった痛みを忘れさせてくれた。この事実に対する皮肉のように感じられた。


「それに一夜の過ちは、心地が良いんだ。どんなことより、何よりね」


「俺はそうは思いませんよ。一時の快楽に溺れるなんて野蛮ですよ。野蛮な経験からは野蛮な芸術しか生まれません。野性的じゃなくて、凡庸で、俗的で、なんの新しさもない焼き増しの芸術しか生み出しません。僕らは貴い関係を紡がなければならないはずですよ。だから、逃げ出してはいけないんです。天才を前にしても、逃れずに挑戦するべきなんです……」


 自戒の念が込められた外村の言葉に、僕は顔を上げる。

 そして五年ぶりに、端正な外村の顔を見る。あいつはあざとい顔面に、涙すら浮かべて、感情的になって、急に顔を上げた僕に驚く。してやったと思ったが、それ以上に親友が、今はもう知り合い程度の関係に落ち着いた男が悲痛な表情を浮かべていることに抱く悲しみの印象の方が大きい。幾人もの天才を前にして、幾重もの挫折を繰り返した人間は酷くうらぶれて見える。

 けれど外村は輝いて見える。悲しみの印象の中に、あいつは一握りの輝く芸術を持っている。曲がらない信念と、自身を表現するために芸術を追求するという確固たる姿勢があいつの涙ぐんだ表情に見える。そしてこれこそが、僕が本来手にしなければいけなかった芸術であると分かった。


「外村……、お前の言う通りだ。逃げてちゃいけないんだ。僕らは前を向いて、必死に突き進んでいくことが大切なんだ」


 だから再開の挨拶よりも前に、僕の口からは外村の言葉を補う言葉が漏れた。

 過ちに気付いた今、僕の口は、僕の心は、何不利構わず堆積した思いを吐き出すらしい。


「僕は間違っていたんだ。甘美な誘惑に乗ったことも、お前から逃げたことも、そして今も昔の自分に囚われ続けていることも、全部間違ったことなんだ。光さんだけに頼って、他人と関わることを避けて、傷つくことを避けることも全部間違っていたんだ。あらゆる艱難辛苦を共に歩める仲間を見つけるべきだったんだ。苦難を共有できる本当に大切な仲間を自らの手で探すべきだったんだ」


 ついさっきまで黙りこくってカウンターに座り込んでいた奴が、意気揚々と語る様はあいつにとって奇妙な光景に見えるだろう。だからあいつの優しい瞳から溢れ出そうとしていた涙は、すっかり引っ込んでいるんだ。唖然として僕を見つめているんだ。

 けれど、僕の口は止まらない。止まってくれない。マスターや紫のお客さんの目なんて、気にすることは出来ない。大切な言葉を、こいつに伝えたいたった一つの言葉を伝えるまで僕は止まれない。


「何もかもから逃げ出して、仕舞には自分に才能が無いと、最も簡単な言葉で自分の芸術に片を付けようとした。だから、せっかく貰った仕事も芯が抜けたような中途半端な絵しか描けなくなった。いつしか自分の運命だと勝手に納得していたんだ。そして今も、自分の責任を大切な人に擦り付けようとしていた。あさましくて愚かなんだ。けれど、僕は……」


 止まれないと言ったのにもかかわらず、僕は伝えたかった言葉に詰まってしまった。

 最後の最後で、僕の口は満足に動いてくれなかった。

 本当にどうしようもない人間だ。


「一度落ち着けよ、少年。らしくないじゃないか、変に熱が入ってさ。雰囲気で酔っぱらったのかい?」

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