morning glory

 眠りを覚ましたのは、やけに眩しくて暑い朝日だった。

 ギラリと嫌に光る太陽は、部屋の中に照り付けて、朝なのにも関わらず不快な蒸し暑さを部屋の中に浮かび上がらせた。纏わりつく暑さは、浅い眠りから僕の体を呼び覚ました。

 ただぼくが不快感と酷い頭痛を覚えた朝でも、光さんは爽やかに笑っていた。昨日の夜、僕を誘惑した人と別人だと思えるほど雰囲気が変わっていた。


「おはよ」


 怠い頭を抱える僕に、光さんは微笑みかけた。

 目覚めた瞬間、酷く厭わしいと思っていた朝日が包む光さんの端正な顔は美しかった。薄い布団の上に、女性の恥じらいを気にせずあぐらをかいていたとしても、光さんは爽やかに輝いて美しく見えた。

 一瞬、いや、暫時、僕はその光さんに見惚れていた。一時、光さんのこと以外考えられなかった。汗ばむ体も、酷く乾いた口も、不快感のある髪の毛も、全てがどうでも良かった。僕の意識は全て、目の前で微笑む唯一無二の先輩に、あるいは悪魔に奪われた。


「おはようございます」


 心ここにあらず、それ体現した当時の僕からは酷く小さい声が漏れた。

 鳥と蝉の鳴き声に消されそうな声だったけれど、光さんの耳には届いた。


「冷蔵庫の中にさっきコンビニで、買ってきたやつ入れておいたから食べていいよ」


「あ、ありがとうございます」


 気があまりにも利きすぎる光さんに、僕はうろたえて、詰まった言葉を過剰な礼節と共に伝えた。


「そんなにかしこまらなくても良いんだぜ。というか、『ありがとう』って言うのは私の方だよ。言伝もなしに泊めてもらったしさ」


 自分でも奇妙なくらい遠慮を施した言動は、光さんに苦笑いを浮かべさせた。自分を誘ってくれた先輩に、むしろ配慮を鑑みなければならない表情を浮かべさせてしまったことに、僕は罪悪感を覚えた。多分、これを覚えた瞬間、ばつが悪い表情を浮かべたんだと思う。あくまでも主観的な観察でしかない。ただ、何となく、そんな気がする。

 およそ間の悪い空気が、僕の態度のせいで、本来は爽やかであるはずの朝に満ちた。ただ、その空気の悪さは、僕が感じただけのものだったらしい。髪を人差し指で弄び、光さんは極めて平然とした表情と態度を保ちながら年上の威厳を、恥ずかしさをこらえながら紡いだ。ほんのり上気した光さんの頬は、昨日の夜に比べて美しかった。

 美しいとこれほど思えた朝はこの日以外なかったと。僕はあの日の朝に、昨日の夜の悪魔的な美しさと真逆の美しさを覚えた。そして意識的に、真逆の美しさに僕は気付いた。だからか、余計に光さんの美しさは映えた。


「それじゃあ、頂きます」


「そうしてくれたまえよ」


 僕も光さんも、自分と相手に対して何か今までとは異なる違和感を覚えた。そして、この違和感はいつの間にか、互いに対する照れに発展した。僕らは互いに頬を赤らめ、今度はある種の幸福から逃れるため、それぞれの自意識に従った行動に移った。

 恥ずかしさから流し台の前で、味がほとんどしないハムとチーズのサンドイッチを口の中に入れた。そしてカルキ臭さを感じる生ぬるい水道水で、喉を潤した。口の中には、不快感が残った。けれどそれ以上に、部屋に戻ることに対する羞恥心が勝った。恥じらいは臆病を増進させ、少しでも一人で居たいという感情を煽った。

 孤独を促進させた感情に対して、無意識的な言動を起こした。真鍮色のやかんを調理器具棚から取り出して、その中に水を入れて、ガスコンロに掛けた。橙色と青色が混じり合った炎が、やかんの底を炙った。そしてお湯が沸くと、一度も使ったことのない来客用の白いマグカップを食器棚から取り出して、インスタントコーヒーを淹れた。安っぽいコーヒーの匂いが、玄関に立ち込めた。


「ブラックコーヒー、飲めますよね」


「飲めるよ。というか、わざわざ淹れてくれたんだね」


 日常の言動を、僕は特別な出来事の一部分として切り取った。そして新聞のスクラップのような行動の結果を、僕は光さんに届けた。マグカップを受け取った光さんは、匂いから結果を分かっていたのにもかかわらず、わざと驚いた表情を浮かべた。仮面は光さんの器用さに反して、不器用な出来だった。

 けれど、例え、歪んだ仮面は僕の愉快心を刺激した。だから僕は口元に微笑を浮かべた。新しい自分が初めて浮かべた自然な笑みだった。

 僕はその一瞬の笑みに、停滞する自分の中での成長を見出した。ただ、今となっては僕がこの時感じ得た成長は決して成長ではないと思う。それは成長しない自分自身に、無理やり納得させるための口実に過ぎなかった。

 だから、その時、部屋に感じ得た違和感をおよそ当事者に指摘することは出来なかった。


「あれ、絵が無い」


 襖に立て掛けておいた十五枚の絵は、どこかに無くなっていた。

 朝、片付けようと決めていた過去の遺物は見る影もなく、すっかり消えていた。


「ああ、絵なら押し入れの中に入れておいたよ」


「あ、ありがとうございます」


 コーヒーをすすりながら、本棚から取り出した文庫本を読む光さんはぶっきらぼうに答えた。僕はこの光さんの受け答えに、強烈な違和感を覚えた。それまで互いに感じた恥は、この時を境に消え去った。


「けど、いや、まあいいや」


「何がです?」


「何でもないよ」


 そしてもう一度、違和感を覚えた。

 ただ、その違和感は光さんにはぐらかされた。いや、僕が僕の心にそれが勘違いだと思わせただけだ。


「とりあえず、行こうよ。もうそろそろ、会場設営の時間だ。やると言ったら、やることに対する責任を払わないとだしさ」


 その言葉を最後に僕の違和感はうやむやになった。

 停滞の象徴をキャンバスバッグに入れ、僕と光さんは家を出た。

 ただ一つ、その時、光さんも同様にキャンバスバッグを持っていた。

 この時、光さんにどうしてキャンバスバッグを持っているのか聞けなかった。訪れた時は財布とスマホだけを持っていただけなのに、荷物を増やしたことに対して、僕は何も言い出せなかった。疑問を持ち合わせていたのにもかかわらず、僕と光さんの間に知らないうちに築かれた見えない壁は、疑問の発露を妨げた。

 朝から多くの違和感を覚えながら、僕と光さんは周りを自然で囲まれた大学に到着した。

 アーチ状の白い外壁に合わせて半円型のガラスが、等間隔ではめられた独特な外壁は、美術を教える場所であること遠回しに、どこか高圧的に伝えてきているような気がした。同時に自然の中に、人工物の代表として君臨しているような様が、人間の浅ましさの現れの様な気がして不快だった。きっと、大学に対して抱いていたこういった感情も、コンプレックスから来ていたものなんだろう。

 大学に対して覚える疎外感と不快感から、僕は一歩踏み出すことに、登校する度にためらいを覚えていた。そして、あの日もそうだった。蝉時雨と照り付ける太陽の下、僕は勇気を振り絞った。大学に入るだけなのにも関わらず。だからか、僕はその時、光さんがどのような表情を浮かべていたのかは覚えていない。日常の朝は覚えていても、一度目の進化を試みた時、これを導いてくれた人の表情を全て覚えることは出来なかった。

 ただ、僕に発した言葉はささやかに覚えている。


「潮、緊張することは無いさ」


 無風の夏の日、その朝に粘着性を感じられる光さんの言葉は、緊張状態にあって意識を自分に向けていた僕の脳にさえ、べっとりとへばりついた。


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