cold
光さんの言うことは間違いない。
芸術を見るのは、芸術家ではない、芸術を見るのは、世間を占める市民だ。一般の人たちが、芸術を鑑賞して、何かどんな形でも良いから印象と感動を与えるのが、僕ら芸術家の仕事だと僕は思ってたし、今も思っている。
僕が抱えている理屈から言って、光さんの暴論は僕自身の論理に適っていた。だから僕は光さんの言葉を前にして、反論することが出来なかった。いや、今考えてみれば、反論できなかったのは僕の弱さから来るものだったんだ。
捨てられなかったんだ。僕は先輩と友人のどちらにも、平等に良い顔をしていたかったんだ。どちらの機嫌も損なうことなく、平等に接して、平等な関係性を保っていたかったんだ。どっちつかずのグレーな関係性を僕は求めていたんだ。だから、僕は光さんに反論できなかった。反論してしまえば、今のように中途半端な関係性が崩れて、深い傷となって僕の心に残るような気がしたから。
憶測による恐れは、僕の声帯を奪い去り、唯一の友人であった外村に対する無礼を弁明させる余地すらも奪った。行動による武器以外を奪われた僕は、呆然と、光さんの酷く冷たい声と、表情を有していない無機質な表情に戦慄を覚えて座り込むだけだった。
「だから、少年。君は君自身が得意とする絵を、あの下らない催しに出すと良いよ」
「え……」
「友人のことを真に理解していない奴の言葉なんか、真に受けちゃ駄目だぜ」
屈託のない笑みを浮かべた光さんは、偽装の温もりを施した手を差し伸べた。
あのタイミングで、どうして光さんが手を差し伸べたのか、当時の僕は曲解した。哀れな僕は恐怖心によって、認識を歪まされていた。いや、自ずと無意識的に認識を歪ませたんだ。
当時の僕は光さんが、天才たる外村の誤認から僕を救ってくれるのだろうと本気で信じた。外村の言う成長は、外村のような神様によって選ばれた選民にだけ与えられる成長で、僕のような名前も一生涯知られないであろう凡才には適う成長ではないと信じたんだ。きっと、いや、確実に、僕の曲解には、僕があいつに言えず抱いてきたコンプレックスが影響していた。僕とあいつは、地盤の出来から異なり、いくら努力をしようとあいつの居る地点に僕の手が届くことは無いだろうと、僕は独りで納得していた。天才と凡才は、元から決定的に違うんだと僕は決めつけていたんだ。
初めて出会って握手をしたとき、手首に貼られた湿布と偏った手の硬さに気付いておきながら。
どこまでも僕は臆病だった。
「光さんは、どんな絵を出すんですか?」
臆病にも震えるばかりだった僕が、やっとのことでひねり出した言葉は、友人と自分のための反論ではなかった。
「うん? 私は出さないよ。徹底的に反対の立場。君と違ってね」
「……」
ただ、そんな言葉すら僕は出さなかった方が良かった。
意志薄弱だと光さんは、嘲るように僕を笑った。
けれど、心の内で僕を貶しながらも光さんは手を差し伸べていた。今でも、その電灯の下に照らし出されたほっそりとした指と、きめ細やかな肌が印象的な光さんの手が頭について離れない。
僕の心は滅茶苦茶に壊された。
ああ、そうだ。
当時の僕も、この時、自分で自分が最も大切にしていた二つの関係を壊したんだと自覚していたんだ。だから、救いの手を、目の前にある楽土へ導いてくれるで、あろう手を取ったんだ。
光さんの手はやけに冷たかった。けれど、僕はそれで救われたような気がした。外村との関係を終わらせたことが、強烈なコンプレックスからの解放のように思えたんだ。
薄暗く汚い部屋の中で、過去の僕をこれからの僕にそのまま受け継がせた。
つまり、今の僕は変わりようの無い蝋人形だ。
その道を示した光さんは、僕が手を取った時、酷く嬉しそうだった。これでもかと口角を上げながら、酒気以外の要因で頬を赤らめていた。体が火照るのか、左手で器用にシャツの第一ボタンを外していた。なのにもかかわらず、右手は冷たかった。
「そうだよ、少年。君は魅力的な絵を描けるんだ。そう、とても魅力的な風景画がね」
生ぬるい言葉は心地よかった。
ただ関係を壊した快感に浸るよりも僕は、代わりを求めなければならなかった。そのために僕は押し入れの中から、大学一年生の春、気ままに書いた一枚の風景画を取り出した。
川原の絵だった。
もう、その絵を描いた時の心持は覚えていない。けれど、投げやりな色の塗り方だったことから、描いた当時の僕もその作品を気に入ってなかったと思う。いや、がらくた塗れの押し入れの中に入れていたのだから、思うではなく、絶対にそうだ。
取り出した当時の僕も、その絵を見て凡庸な川の風景だとしか思えなかった。ホテルの会食場に掛けられているような風景の中に溶け込む、個性を廃した油画は、停滞する自分自身を表しているようだった。
「へえ、中々上手く描けてるじゃないか」
停滞する僕自身の写像を、光さんは咄嗟に奪い去った。
そしてどこか気の抜けた賞賛を漏らした。僕は、光さんのその言葉が本心から発せられているものではないとはっきり気が付いていた。けれど、停滞を望む僕からしたらそれは一種の安堵だった。
「これなら中々イイ線いくんじゃない?」
嘘の仮面をつけた光さんの笑みに、僕は何も感じなかった。
品評会に向けた興奮が冷え切ったことによる反作用だった。あれほど自分の表現を皆に、特に外村に見せてやろうと意気込んでいて、その興奮のせいで眠れなかったのにもかかわらず、自らその機械を断ち切った反作用がその時回ってきた。
体の力は、気力とともに失われた。急な眠気が襲ってきた。けれど、僕はあの絵を片付けなければならなかった。十五枚の絵をがらくたとして押し入れの中に入れなければならなかった。僕はその作業をしなければと立ち上がろうとした。
「いきなり来た私が言うことじゃないかもだけど、もう遅いし、明日は品評会だから寝た方が良いよ」
ただ、光さんは僕の右手首を冷たい右手で掴んだ。そして見上げながら、優しく微笑んだ。
普通の状況だったら、僕は光さんの仕草に見惚れていた。けれど、あの時は性的な刺激よりも恐怖を覚えた。根源的で、近づいてはならないと生理的な拒絶を示す恐怖を。
「はい。寝ましょう」
「うん、そうしよ」
初めから弱い精神に、恐怖はあまりにも強く作用した。
同時に僕自身の意志を喪失させ、僕を眠りへと誘った。
ゆっくりと瞼を閉じて、薄暗くて、精神的に冷たい黒の部屋の中で僕は眠った。
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