foolish

 今も耳に残る光さんの声は、当時の僕にとってはただの会話でしかなかった。光さんが発したその言葉が、僕の人生に影響を及ぼす重大な言葉だとは思わなかった。


「そうです」


 日常会話の切れ端としか認識していなかった光さんの声に、僕は光さんが開けっ放しにした建付けの悪い玄関戸を閉めながら、純朴に答えた。金具と金具が干渉し合う嫌な音が、やけに部屋中に響いた。夜中に響く音に気を取られず、あの時、光さんの表情を見ていれば、光さんの放った言葉に、僕は何かしらの疑問を抱けたのかもしれない。

 ただ、歴史にIFが無いように人の過去にもIFは無い。事実として僕は、光さんの放った言葉に特別な印象を抱いたのにもかかわらず、特別な注意を向けることなく、自分の動作にばかり意識を向けていた。だから光さんが、僕の部屋で大きな物音を立てるまで、僕は自室に意識を向けなかった。

 不注意の中で、僕は気分昂る夜中を過ごしていた。そして女性特有の香り、自分自身の性の欲望に負けないように玄関先の流し台でフライパンを生ぬるい水で洗っていた。家事という行為は、僕にとって自意識を一時的に忘失させることの出来る行為の一つだからだ。ただ、意識的な自己忘失の最中、汚れた僕の部屋からけたたましい物音が鳴った。要因は一つしか考えられなかった。

 蛇口を閉め、僕はのんきに物音の原因を追究するために汚らしい自室に足を踏み入れた。


「なにやってるんですか?」


「ちょっと、絵を見ようとね」


 僕の想像通り、物音の原因は光さんだった。

 襖に立て掛けておいた十五枚の人物画を、光さんは一枚一枚見ようと、猫のような姿勢で指先を注意深く動かしていたらしい。その最中に、光さんは無理やり僕が片付けて、押し入れの近くに投げておいたゴミ袋に足を取られた。きっと、ゴミ袋の中に入っていた鉛筆に足を滑らせたんだ。そして光さんはバランスを崩して、反射的に襖に左手を伸ばし、その結果、襖が外れて押し入れの中の荷物が崩れ落ちた。ガラクタが降り注いで、外村からもらったお風呂に浮かべるアヒルの玩具が鏡餅のミカンのように見事頭に光さんの頭に乗っかった。そして、ヨガのような姿勢を光さんはとっていた。

 コントの一部始終のような現場を前に、住人に対する心配よりも笑い声が零れた。そして光さんも、物音を立てたことと、どうしようもなく部屋を散らかしてしまったことに苦笑いを浮かべていた。


「アヒル、ですか」


「そうみたいだね。そんなのいつ買ったの?」


 散らかって埃が舞った部屋に足を踏み入れ、光さんの頭に乗っかったアヒルの玩具を、僕は中腰になって手に取った。絶妙に辛い姿勢をとる光さんは、目に涙を浮かべていた。あの冷たい声からはとても考えられなかった。


「外村からもらったんですよ」


「外村って、首席の?」


「そうです。あいつが去年の僕の誕生日にくれたんですよ。『役に立たないかもしれないけど、いつかモチーフとして使えるかもしれない』なんて、こじつけが酷い言葉と共にです」


 今もきっと押し入れの中に眠っているアヒルを僕は、懐かしそうに眺めた。


「それで、その外村に騙されて人物画なんて描いたんだ」


 ただ、どこか愛らしい光さんは僕がノスタルジアに浸っている間に居なくなっていた。ガラクタの山の中で、恥じらいもなく光さんはあぐらを組んで冷たい言葉を紡いだ。

 動揺した。

 友人がいわれのない疑惑をかけられているのにもかかわらず、僕は怒りよりも、何か、とてつもない恐怖を覚えた。いや、それは光さんの言葉から来る恐怖じゃなかったのかもしれない。品評会に向けた緊張から、いや、僕自身の臆病から来るものだったのかもしれない。


「少年、いや、潮。出来る奴の言葉を信じちゃいけないぜ。出来る奴らは自分に出来ることが、そして自分が経験したことが誰にでも通用すると思ってる節がある」


「……」


 突然の暴論に、僕は閉口した。

 何も言い返せなかった。この時、光さんの暴論を止めることが出来ていたら……。


「凡才には当てはまらないことにもね。私や潮のような普通の美大生には分からないようなことを言ってくるんだよ。だから、それを鵜吞みにしちゃ駄目だ」


「でも、違う、あいつに限って」


「違わないよ。外村は君にわざと下手な絵を描かせているんだ。それが成長につながることは無いよ。下手なものは一生下手だよ。断言できる。大体、こんなお化けのような絵、誰が見たがるんだい? ただの自己満足に過ぎないじゃないか。私たちが目指すのは、市民のための芸術だよ。ここにある絵は、全部その範囲を逸脱している。そこから言って、この絵たちはゴミだよ」


 光さんは真顔で断言した。

 僕が描いた絵がゴミであると。


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