Liquor

 僕の反応に満足した外村は、僕から手を離してくれた。

 そして、僕はそのまま逃げるように、けれど晴れ渡った勇敢な心持で部室を出た。幼いころと同じように、あの時は純粋な心持だった。腕白に、自由に僕は僕自身を表現できる勇気を僕は持っていた。

 足取りは軽かった。周りの学生も気にならなかった。僕は僕だけの内省的な世界を見れていたし、それを僕の不器用な手で表現できると信じていた。だから僕はその足取りのまま、晴れ渡る五月の空の下に飛び出して、内なるインスピレーションを開放するために、今も住んでいるあの狭いアパートに画材を取りに向かった。

 あの日から僕は画材を手に、金銭的に移動できるところに移動して、精力的に人物画作製に邁進した。もちろん、単位を取るためだけに授業に出席していた。けれど、相変わらず教授からの評価は低かった。座学はそこはかとなくこなすことは出来たけれど、実習の評価は芳しくなかった。

 当時の僕は、自分の作品が低く評価されることが嫌だった。唯一得意としていた風景画が、凡庸だと評価されることも嫌だった。

 ただ、あの時、あの期間だけは、そんなことはどうでも良かった。僕は自分の表現に従って、下手くそな人物画を描くことが楽しくて仕方が無かったんだから。公園や、神社や、寺や、臨海公園や、川原や、美術館前に赴いて、通り行く人々に声をかけて、モチーフになってもらって、その人を自分なりの表現で描くことが何よりも生きがいを感じられていた。だからそれ以外のことは、どうでも良かった。

 今まで囚われていたことから解放されることは気持ちが良かった。

 けれど、やっぱり、どれだけ自分なりの表現を自由に表そうとしたところで、出来上がる絵は下手くそだった。全部お化けのような絵に見えて仕方が無かった。アンリ・ルソーの美しさは程遠く、ゴッホの狂気にも近づけず、ピカソの多面性も表せなかった。酷い絵ばかりが、十五枚出来上がった。

 黄色は黒く、青は緑で、日差しは灰色、空は赤で、輪郭は歪み、目鼻は崩れた奇妙で下手くそな絵ばかりが、あの狭い部屋に並んでいた。けれど、当時の僕はその絵を愛していた。そしてこれこそが、僕の表現だと当時は本気で思っていた。舞い上がっていたんだ。あれらの絵に、宗教的な美しさを見出していたし、浮世絵のような人間臭さを感じていたんだ。

 だから、僕はその中でも飛び切り気に入っていたトモさんのような教養のあるおばあさんをモチーフに、臨海公園で描いた絵を翌日の品評会に持っていこうとした。もっとも、当時の僕は、部屋に立てかけられたそれらの絵を全て品評会に持ってきてやろうかと思っていた。そしてあいつに、僕の表現を見せつけてやろうと思った。

 品評会前夜は、興奮に包まれて寝付けなかった。

 ただ、今となってみれば、あの日、早く寝ていればよかったと心から思う。


「ごめーん。開けてくれるかな、少年?」


 あの日の深夜二時、光さんは僕の小さな穴倉に尋ねてきた。油絵具の臭いと、滅茶苦茶に描き殴った課題用の素描と画材が散らかる部屋に、当時から美しかった光さんを上げるわけには行かないと、薄っぺらな布団の中で思い立って、大慌てで窓を開けて、散らばった紙と画材を一緒くたにゴミ袋用のビニール袋に放り込んだ。

 当時のことを思うと、どうして深夜に、僕の部屋に尋ねてきたのかを考えればよかった。けれど異様な興奮に包まれた負け犬は、冷静さを欠いて、奇妙な訪問者を迎え入れたんだ。


「ありがと、ちょっと家の鍵、大学に忘れて帰れなくなっちゃってさ」


 薄手の白シャツとジーパンに身を包んだ光さんは、酒気に赤らんで、顔の前で手を合わせながら僕に願い出た。その当時、僕は光さんに住所を教えてなかった。だからどうして、光さんが僕の借家に訪れることが出来たのか不思議でならなかった。けれど怖いとは思えなかった。

 危機感の無さは驚くべきことだった。だからか、僕は光さんが家に入ることを許してしまった。


「随分と汚い部屋だね」


「うるさいです」


 光さんの無礼は当時から健在だった。

 土間に靴を脱ぐと光さんは、ずけずけと僕の住処に足を踏み入れ、何かを探るように僕の部屋を見回した。


「それで、どうしてこんな時間に鍵を無くしたことに気付いたんですか?」


「うん? ああ、ちょっと同期と飲み会しててね。それで飲み歩いて、三次会までして、今に至るってわけ」


 酒豪っぷりも昔から健在だった。


「で、今日は僕の家に泊まるんですか?」


「そのつもりだよ。それとも私と朝まで飲み歩く?」


 ついさっきまで僕が横になっていた布団に、光さんはどっかりと腰を下ろして、あぐらを組んだ。そして自分の足に、頬杖をついて、おっさん臭い口調で僕を誘惑してきた。


「この前の新歓でも分かった通り、僕は下戸です」


 この日より一か月前、僕らの部活は新人歓迎会をやった。僕の誕生日は、五月だったからこの日、光さんに勧められて、いや、ほぼ無理やり酒を飲まされた。結果は、ビールをジョッキで三杯飲んでトイレに直行だった。次の日は酷く酔って、せっかくの休日だったのにもかかわらずどこにも出かけられず、布団の中で船酔いのような状況に置かれたことを今でも覚えている。

 酒の場のトラウマを植え付けられた僕は、光さんの提案を積極的に断った。どこか自分の提案に乗ってくれるだろうと考えていたからか、光さんは頬を膨らませた。可愛いというよりも、美しい顔立ちだからか光さんの幼げな言動に、ほんの一瞬、心を奪われた。


「へえ、意外と見る目あるんだね、少年」


「少年と呼ばれる歳は越えましたよ」


 あどけない言動から光さんは、大人びた笑みを浮かべた。

 淫靡さから僕は体に熱を覚えた。僕はその熱から逃げるために、顔を背けて、僕が情熱と野心を込めて描いた押し入れのふすまに立て掛けた十五枚の絵に視線を移した。


「へえ、それがあのくだらない会に出す絵?」


 ただ、艶やかな声の後に紡がれた言葉はやけに冷たかった。

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