summer

 あの日、僕は、僕自身の自信を崩された。

 五年前の夏。

 僕が大学二年生だったころ、座学用の教室にて。

 部長が始めようと乗り気になって、他の部員も部長の考えに賛成して、品評会は五月に開催が決まった。光さんは品評会を、西洋サロンかぶれの下らない行事だと部会の時に堂々と反対していた。もちろん、僕も反対した。けど、それは光さんの反対と違って、僕が僕自身の絵に自信が無かったからだ。だから、僕の反対は酷く弱々しく、賛否を問う場面で、反対票の時に弱々しく手を上げただけだった。けれど、大体数の部員は品評会に賛成し、品評会は開催されることとなった。

 賛成多数で開催が決まると、七月の開催が楽しみだと、少し緊張すると、部員は部室でどよめいていた。品評会の開催を提案した部長も、大規模なイベント開催に関する緊張と、自分の作品に対する絶対的な自信、二つの感情に複雑に包まれて、強い精気を纏っていた。

 周囲の技量に対して率直に向き合い、誰にも負けないと意気込む部員たちに反して、僕は酷くうなだれていた。

 家族に期待されて、田舎からあの美大に入ったけれど、僕は満足な絵を描けなかったからだ。そして、その時、僕の隣に新入部員として座っていた、同じ学科で、友人だった外村に酷いコンプレックスを抱いていたからだ。

 一年生の頃、田舎から出てきて都会の雰囲気に馴染めず、ガイダンス中、落ち着きのなかった僕に外村は話しかけてくれた。初めて喋った時から、あいつに人懐っこい印象を覚えた。柔和な口ぶりで、子犬のようなふんわりとしていた。

 けれど、印象に反して外村は、こと芸術に関しては鋭い感性を持っていた。その上、物事の本質を瞬間的に捉える頭脳と、本質を表現できる技量を持っていた。だから持ち前の鋭い感性と捉える頭脳で、自分なりの芸術として理解したことを、一切の淀みなく、画材を用いて表現することが出来る奴だ。

 天才だ。

 それだから、天才でもなんでもなかった自惚れ屋の僕は外村に強いコンプレックスを抱いていた。

 そして、あの夏の時も、強いコンプレックスを抱いたまま外村の横顔を見ていた。同時に大学内で唯一のよりどころとしていたサークルに、コンプレックスからこの時まで唯一逃れることの出来た安息の地に、どうしてこいつが入ったのか疑問に思っていた。

 それに五月の強い午後の日差しに照らされる、赤茶色のふんわりとパーマと、高い鼻と狭い額、大きな双眸が、外村を構成する要素のすべてが酷く怖かった。でも、それ以上に開催の決まった品評会の開催が何よりも怖かった。


「松野、どんな絵を持ってく?」


 頬杖をつきながら、挑発的な疑問を外村は僕に向けてきた。

 純粋な疑問だったんだと思う。けれど、余裕の笑みに満ちた外村の表情は、当時の僕からしてみれば酷く不快だった。


「人物画以外だね。僕は人を上手く描けないからさ」


 だから僕は、つっけんどんな態度を外村に取った。ただあいつは、嫌な顔もせずに笑った。


「そう? 俺はお前の描く人物画、結構好きだよ」


「僕は嫌いなんだよ。均一と調和を欠いた人の絵と、そんな絵しか描けない僕自身が嫌いなんだ」


「あんまり悲観的になるのは良くないよ。ポジティブに生きなきゃ。それにポジティブで生きてた方が、表現も生きると思うよ。俺の主観だけどさ。だから、あんまり自分を卑下するなよ」


 不思議なことにあの時の外村は、不安の中に漂って怯える子犬のような僕に、ついさっき光さんが言ったことと同じようなことを言っていた。それも光さんと同じように、少し不機嫌で、語気を強めてだ。

 ただ説教臭いあいつの言葉に、当時の僕は苛立った。光さんの言葉とは異なり、あいつの言葉は僕の心の深いところに、触れられたくないところに突き刺さった。図星を突かれた僕は、負け犬の表情を忘れて、顔に怒りを込めた。ただ、その強張った顔を見られないようにうつむいた。


「卑下するしかないんだよ」


 そして僕は負け犬の言葉を吐いた。

 外村がこの時、どんな表情をしていたのかは分からない。

 けれど、あいつは僕の言葉を聞いて、僕の背中に手を当ててくれた。冷房が効いていても暑さを感じる気温だったのにもかかわらず、どうしてかあいつの体温は心地よかった。


「お前もその内、自分の表現の価値に気付ける時が来るよ」


「……僕の価値」


「うん、そうだよ。学校の評価が全てじゃないし、大多数の人に認められることも全てじゃないんだからさ。だから、いつかきっと、そういう固定観念を捨てて自分自身に気付ける時が来るよ」


 ずぶ濡れの気分だった僕に、外村の言葉は良く響いた。

 衝撃的だったんだ。

 他人の評価に囚われていた僕にとって、外村の他人を顧みない価値観に基づいた姿勢はとてつもなく斬新だった。芸術家の伝記やドキュメンタリーで良く聞く言葉だったけれど、現実で、それも僕のような何の取り柄も無い人間に対して、直球に言ってくる奴はあいつが始めてだった。それにあいつは、二年生だった当時も学科の首席だった。だから余計響いたんだ。

 でも、当時から今も続く縮こまった精神は、外村の価値観が歪んで見えた。あいつの言葉が嫌味に聞こえた。主席と末席、その関係も作用していたのかもしれない。だから、当時の僕にとって、今の僕にとってもあいつの言葉は良薬として作用してくれない。そして持ち前の臆病も、不健全な苛立ちを抑えることは無かった。

 俯きがちに僕は立ち上がった。なるべく、あいつの顔を見ないように席を外そうとした。

 逃げようした。けれど外村は僕の左手首を掴んで、僕の逃避を妨げた。


「松野。一回、風景画以外の絵を発表してみようよ。俺にとってお前の人物画は、個性的で、お前なりの芸術が現れていると思うんだ。何も美しい景色を描くばかりが芸術じゃないんだ」


「それじゃあ、お前は自分が最も不得意とする絵を他人に見せられるのか?」


 臆病者で、どうしようもなく弱虫の癖に僕は外村の言葉に歯向かった。

 震えていたと思う。少なくとも、僕はあの時、泣き出しそうだったんだから。


「それが俺にとって成長の糧となるんだったらね」


 そして震える僕を前に、外村は筋の通った声色で、硬い調子で、はっきりと答えた。


「お前は強いよ」


「いや、俺も松野と同じくらい弱いよ。ただ、一歩踏み出すことが大切なんだよ。だからさ、今度の品評会、俺は静物画を出すから、お前は人物画を出してくれよ」


 自分が最も不得意とする題材を外村は提案してきた。

 外村の声は芯が通っていた。けれど、手は震えていた。あいつの訴えは、あいつの勇気だった。あいつの強さだった。僕はそれを前に、勇気づけられた。絶えず左手から温もりと弱さを伝え、言葉でもって勇気づけてくれるこいつの提案になら乗っかっても良いと思った。

 だから僕は、こくりと小さく、けれど顔は見せずに頷いた。


「ありがと」


 微笑みながら紡がれたであろう言葉は、僕のびしょ濡れの心を一気に乾かした。曇り切った心は、あの日の天気と同じように晴れ渡った。

 けれど、僕は、自ら、その心を、今日みたいに壊してしまったんだ。

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