friend

 振り返りたくない。

 僕はそいつの顔を見たくない。

 ああ、そうだ。こんなのは一方的な理由に過ぎない。けど、どうしてもあいつに対して、大学時代の僕と唯一まともに親交を交わしてくれていた奴を、僕は直視できない。

 心臓の動悸が酷い。

 冷や汗も酷い。

 何もかもが最悪な気分だ。ロートレックの妖しげな色は消え失せて、ゴヤの黒い絵の不気味な色彩が視界を覆う。美しい光さんの顔も、ダンディなマスターも、客も、何もかもが混ざり合って色彩の調和は消え失せる。静的でありながらも、動的な絵画は崩れ去る。

 体調が酷く悪い。

 顔色も芳しくないはずだ。せっかく自分の芸術に対する決心をしたのに、他人から逃れるような芸術から離れようとしているのに、たった一人、かつての友人と出くわしただけで、僕は振り出しに戻る。青ざめて、ぶるぶる震えて、現実から目を逸らそうとするばかりだ。あいつが僕に対して悪意なんて抱くはずがないのにも関わらず。


「なーんだ、ひとしか」


 関係を拒む僕から光さんは手を離して、気の抜けた声と共に椅子の回転に伴って体を後ろに向ける。


「なんだって、東さん酷い言いぐさですね」


「サークル時代から変わらないよ。仁、お前は生意気だったからな」


「グラス、空ですよ」


 芸術家の鏡である外村とむらの認識から逃れるために、弱気に俯いて、瞼を閉じる。

 気の利いた外村の笑い声も、光さんの冗談めいた言葉遣いも、一刻も早く終わってほしい。そして出来れば、誰もがこの場からいなくなってほしい。僕が立ち去れば、この場に居る誰にも迷惑をかけず、事態の収拾は着く。けれど、僕の臆病な足は動いてくれない。床板の裏から釘で靴底を打ち付けられたみたいだ。

 ああ、どうか消え失せてほしい。

 外村、君の笑顔は、君の言葉は、君の芸術は僕を打ちのめしてしまうんだから。だから、どうか、僕の目の前から消えてくれ。


「東さん、それでどうして下戸の松野を連れてこのバーに?」


 非の打ちどころのない顔で、口を少し歪めて、腕を組みながら、かつてサークルでしていたように外村は光さんに喋りかける。

 本能的にこれだけ拒絶しているのにもかかわらず、外村の声は僕に届く。きっと暖かい思い出が、あの人から得た経験とは真逆の経験が、僕の精神に働きかけているからだろう。


「弟のことでさ、色々あったんだよ」


 悩まし気な微笑に、重みの入った言葉を光さんは気だるそうに紡ぐ。


「弟さん? ああ、叶さんのことですか。あの稀代の天才と松野が何か関係あるんですか?」


「稀代の天才ねえ、油画科主席の君をしてそう言わしめるんだから、あいつのセンスは、天から与えられたものなんだろうねえ……」


「質問から逃げないでくださいよ」


 人の機微に敏い外村は、きっと微笑を浮かべながら、指先でストレートパーマを弄びながら、柔和な言葉づかいで、のらりくらりと質問を躱そうとする光さんを諫める。イケメンの微笑と丁寧な言葉遣いは、どんな人間にも効果があるはずだ。それが例え、光さんのような女傑であったとしてもだ。僕には分かる。分かるからこそ、関わりたくないんだ。

 柔和な言葉に光さんは、けろりと笑う。そしてグラスをカウンターに、コトンと置く。


「まっ、端的に言うと稀代の天才様の看病を潮に頼んだんだよ。けど、ちょっと、あいつの性格上、反りが合わなかったらしくてね。今はその反省会?」


「だから松野は、この世の終わりを見た様に落ち込んでいるんですね」


 背中に馴染みのある視線を感じる。

 僕を励まし、僕を支えようとしてくれた善人の眩しすぎる視線が、影たる僕に送られる。


「まあ、そうだねえ……」


「違うんですか?」


 きょとんと、図体に見合わず首を可愛らしく外村はきっと傾げているはずだ。


「時として太陽からもたらされる恵みも、毒となるんだよ。この世にあるもの全部、バランスが重要なんだ。どれだけ摂って良いのか、どれだけ浴びて良いのか、どれだけ関わり合って良いのか、全てはバランスだよ。自分に見合った均衡が、心に平安をもたらすんだよ」


 あざとい仕草を取っているであろう外村に、光さんは遠回しの言葉を返す。


「……なるほど」


「だから、私は今でも失敗したと思ってるんだぜ? 仁、君をうちのサークルに入れたことをさ。そしてあんな下らない品評会を、一番下らない芸術サロンの真似事をしたことをさ」


 そして、光さんは僕が知らなかったことを告げる。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る