decide

 光さんが漏らした声は、退廃的な色を帯びている。

 朗らかで、悩み事はすぐに吐き出すような人が帯びていた輝かしさが、今の光さんの下には無い。魂を全て摩耗しきって、疲れ果てた人間の殻として光さんは、空になったグラスを弄んでいる。

 弱った状態の光さんを僕は初めて見た。同時に静的でありながら動的な賑わう明るいバーの絵画の雰囲気は、がらりと変わる。印象派の淡く美しい光は、ロートレックのどこか妖しい光へと変わる。お洒落なバーは、ムーラン・ルージュの明かりに照らされて、心を揺るがす。ただ、僕の心が今現在、どんな衝動に揺るがされているのかは分からない。美なのか性なのか、僕には皆目見当もつかない。

 モチーフの変化は、この場から猛烈に逃げ出したいと考えていた僕の現実逃避を阻害した。いつの間にか僕は、少なくとも光さんが店から出てゆくまでは居座りたいと考えるようになっていた。飲めない酒、常連のおじさんの談笑、ディナーをテーブルマナー通りに食べる夫人、これらの雰囲気が僕を魅了する。

 未知の魔力に魅了される僕は、ようやく目を動かすのを止め、視線を光さんに向ける。

今までのような先輩後輩の投げやりな関係性は見えない。僕と光さんの間には、蛇のようにしなやかでありながらも硬い関係性が見えた。きっと、これから光さんと関わり合う度に、僕は自分が変えてしまった貴い関係に、微妙な後悔を覚えると思う。ほんの昨日までの心休まるような関係を、知らず知らずのうちに求めると思う。意志の弱い僕だからそうなるはずだ。だけれど、僕は後悔を噛みしめて、新しく僕が作り上げた関係を保とう。

僕にとって、光さんにとって、新しい関係は芸術に寄与することになるだろうから。


「潮、やっと戻ってきたんだ」


「はい」


「ならよかった。せっかくの夜に、いつまでもくよくよされていちゃ、美味しい酒も不味くなるしね。まっ、マスターの注いでくれる酒は全部美味しいんだけどさ」


 酒気を帯びた光さんは、艶やかに微笑む。

 上気した沁み一つない肌は、心を揺るがす正体不明の衝動を強める。


「どうして顔を赤らめるのさ」


「僕にも分からないですよ」


 勢いを増した衝動に僕は慌てふためき、どうして良いのか分からず、ぶっきらぼうな言葉を返して、光さんから視線を逸らす。視線は泳ぎ、意識も出来るだけ光さんから逃れようと、散漫を意識的に思う。でも、どうやら僕の体は、手先以外不器用らしい。

 酷く慌てる僕は、身振り手振りも慌てて、カウンターに置かれたついさっきまで光さんが弄んでいた空のグラスを倒してしまった。幸いなことに、グラスの中は空っぽで、酒が零れることは無かった。ただガラスが倒れる音が鳴り、グラスの底に残っていた微量の赤ワインが僕の手に付着しただけだった。

 日常とほとんど変わらない会話の中で、醜態をさらしてしまった僕は別の意味で顔を赤らめる。少しの失敗で顔が赤らむほど、僕はどうしようもない小心者らしい。

 逃れようの無い恥ずかしさから逃れようと、手遊びに励む手元に視線を移す。

 惨めだ。


「そんなに恥ずかしがらなくても良いんだぜ? 世の中の人間、雑音塗れの中で生きてるんだからさ」


「小心者なんですよ」


 縮こまった弱々しい僕の言葉に、光さんは膝を叩いて笑う。ゲラゲラとむせ返るほど笑う。

 店内に響き渡る笑い声は、僕が抱く恥ずかしさを煽り立てる。昨日来た時と同じだ。境界性羞恥とかいう厄介な習性が、作用して僕の矮小な心をより小さくさせる。ただでさえ委縮しやすくて、折れやすい心と、光さんのような豪胆な精神の相性は良くない。

 俯いて自己嫌悪の中に、僕は囚われる。貝が硬い殻を閉じるように、外の情報をなるべく入れないように努めようとする。

 逃げるだけの試みをするときだけ、僕の心は奮い立つ。

 馬鹿々々しくて仕方がない。自分自身のちっぽけすぎる心が嫌になる。


「だーかーら、そうやって落ち込むじゃない。誰も潮のことなんて見てないんだからさ。そうやって縮こまって、人から見られないようにする努力なんてして良いことなんて無いんだしさ。だから、潮は、いやこれに限っては私もそうだけど、人に見られるような努力をするべきなんだ。あの大馬鹿野郎に負けないくらい独創的で、美しい芸術を大成させるための努力をすべきなんだよ」


 自己嫌悪に自ら向かう僕の頬を両手で挟むと、光さんは怪訝な眼差しと酒臭い言葉で、僕を説いてくる。うろんとした光さんの瞳と、酒気を孕んだ言葉に、説得力なんて無いと思ったけれど、いざ耳にしてみると酷く胸を打たれる。同時に今日の出来事で、ほとんど手放してやりたいと願った締まった絵筆を再び握りたいと、心を奮い立たせられる。

 僕は臆病だ。けれど、同時に単純だ。尊敬する人の言葉一つで、こうも意志を変えられてしまうんだから。

 知らず知らずのうちに、僕は光さんの瞳を凝視している。ほんのついさっき前まで、逃げたくて仕方が無かった視線を今は受け入れることが出来る。

 だから、僕は、今僕自身が抱いている自分の意志を伝えよう。


「ええ、だからもう一度、やります。今度は負けずに、やって見せます」


 動かしづらい舌と、震えるのを怖がる声帯を震わせて、自分の意志を伝える。


「うん、そうすると良いよ」


 自分と僕の大成を心から願いながら、それ自体が決定事項であるような得意げな笑みを、光さんはにんまりと浮かべる。

 同時に、からんころんと鈴が鳴り、誰かが入店してくる音が耳に入る。


「あっ、光さん。どうしてこんなところに? それと、松野? お前、下戸のはずじゃ?」


 そして聞き馴染みのある声を僕は捉える。

 それは酷く憂鬱な声だ。

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