calm down
頬杖をつきながら寂しく微笑みを浮かべる光さんは、僕の心を射る。胸は締め付けられ、感じたことのない衝動を覚える。いや、感じたことのないと言うのは嘘だ。僕はこの衝動を知っている。
ただ、僕はこの衝動を受け入れたくない。僕は僕自身が、光さんに対して抱いた醜い感情を理解したくない。理解するくらいならば、僕は心に道化の仮面をつけよう。そして醜さを、安易な空虚と思おう。
「そう、ですか」
「どうして詰まるのさ?」
「いえ……」
僕の鼻を人差し指で、つんと突くと光さんは、歳不相応にあどけなく笑う。
結局、僕は道化の仮面をつけることすら満足にできなかった。尊敬する恩人に向けてしまった醜悪な衝動を隠せなかった。
簡単なことすら、本能の衝動を理性で抑えることすら、僕にはできなかった。自分自身が酷く嫌になって、僕は視線を手元に逸らす。もじもじと手遊びをするばかりで、逃げ出し、何も成し遂げられない硬い哀れな掌を見つめる。
「マスター、赤ワインをもう一杯。とびっきり安物で」
「ええ」
明らかに調子を変えた僕を、想ってか想わずか光さんは気にせずワインを頼む。意図的かもわからない状況に、僕は甘えてしたを見続ける。
周囲の会話も、光さんがワインを飲む音も、環境音になる
孤独だ。
独りぼっちだ。
僕は今一人で居たい。
けれど、僕は意気地なしだ。
一人きりの世界に居たいのにもかかわらず、僕は孤独を促してくれる好意を貫徹することが出来ない。顔を上げて、人の様子をうかがって、自意識過剰になる。
誰にも視線を合わせたくない。人の様子だけを見ていたい。要は景色を見ていたいんだ。お洒落なバーっていう絵画を見ていたいだけだ。動的なのにもかかわらず、静的な景色を眺めていたい。
僕はカメレオンを意識しながら、ぐるりと目を回す。けれど僕の目は所詮、人間の目だ。談笑する常連のおじさんも、テーブル席でディナーを食べる夫人も、壁にかかる絵もほんの一部分しか見えない。僕がそれ自体をくっきりと捉えれるのは、気だるそうにグラスに注がれた深紅のワインを飲む光さんだけだった。そして光さんは、僕が捉えようとした静的でありながらも動的な絵画のモチーフとして君臨している。
逃げたいはずの人から僕は逃れることが出来なかった。
「ああ、そういえばマスター。あいつの絵、まだ必要?」
「ええ、頂けるとありがたいです。また、店が華やかになりますからね」
「私の絵より、潮の絵よりも?」
「それは言い難いことです。ただ、ここに飾る絵は私の主観が、美しいと判断した絵だけです。抽象画でも、風景画でも、人物画でもです」
意識を出来るだけ自分に向けていたけれど、モチーフの主張は僕の自意識を上回って、僕に働きかける。そして僕の作品を、僕に無断で光さんが持ち出して、人の目に晒したことに、小さな怒りを覚える。ただそれ以上に、これまで描いてきたどうしようもない絵が、マスターのような芸術的教養のある人に見られたことに対する恥が上回る。
僕は恥で顔を赤らめる。どうにか上品な喧騒が、意識を貫く会話をかき消してくれないかと願う。けれど、モチーフの主張は環境程度の影響で上書きされることは無い。薄められることもない。
「それじゃあ、私たちの絵はマスターのお眼鏡に叶わなかったってこと?」
「端的に言えばそうです」
「ちぇ」
飲み終えたグラスをカウンターに置いて、頬杖をつきながら光さんは年甲斐もない愚痴をこぼす。マスターは、頬を赤らめ、非難するような目つきで自分のことを見てくる光さんに苦笑を浮かべる。
「けれど、東さんや松野さんの絵は輝ける素質を持ってますよ」
ただマスターは、苦笑をすぐ微笑にかえる。
「精神論的なことを言うのは、私としても癪に障ることですが、二人の作品には生気が感じられません。何と言いますか、精魂を感じないのです。つまり、生き生きとした表現がされていないんですよ」
マスターが淡々と紡ぐ言葉に、僕の抱く恥は徐々に消えてゆく。
「生き生きとしたねえ……」
「ふふ、初心に帰って見えてはどうですか? そうですね、それこそ幼かったころ、まだ他人に認められるとか、芸術を大成させたいとかの打算的な感情が無かった時のようにありのままに描いてみてはどうでしょう?」
そして僕はマスターの言葉に、ハッとさせられる。
「それが出来たら、苦労しないんですぜ。無邪気に楽しんで描こうと思って、いざキャンバスに向かうと、どうしても技巧とか思想とか成功とかがチラついちゃうんですよお」
「そこをいかにして超えるかが、難しいことなんですよ。私もそれが出来ずに、今はこうしてバーをやっているんですから」
同時に寂し気な笑みを浮かべるマスターに、夢を諦めるということの辛さを思い知る。
「ただ、諦めるということも悪いことばかりではありませんよ。こうして若き芸術家の卵と話せるのですからね」
「ふーん」
グラスを拭きながらダンディな笑みをマスターは浮かべる。これに光さんは、何か感慨深い息を漏らす。
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