fancy
重くも無ければ、軽くもない中途半端な足取りで、僕は満員電車に乗り込んだ。丁度、退勤ラッシュと当たってしまったためだ。電車内は、外に比べて蒸し暑く、居心地は最悪だった。いや、今の僕にとって満員電車であろうと自分の家の部屋であろうと、どこでも居心地は最悪なのかもしれない。だから満員電車の中が、気持ち悪いというのは、ただ僕の認識が狂っているだけなのかもしれない。
一般解が出ているのにもかかわらず、下らない認識についての議論を脳内で繰り広げながら、僕はほとんど無意識にプラットフォームに降りた。降りるのも、一つの苦役に感じられた。降りようとすると、乗ろうとする人が詰め寄せ、人の波が僕の歩みを阻害した。このせいで、何度も何度も車内に押し戻されそうだった。けれど、何とか痩せっぽちの体をねじらせて、小さな地獄の出入り口から出た。
プラットフォームも、人混みが酷かった。同時にみんなスマホを、首を曲げて見つめていた。僕は普段から見ているはずの光景に、日常の光景に対して何か気持ち悪さを覚えた。
日常に感じた違和感から逃げ出すように、僕は急いでプラットフォームから出た。そして長く、人で満たされた階段を慌ただしく下りた。途中、何人もの人にぶつかった。
こうして僕は駅の構外に出ることに成功し、昨日来たばかりの紫がある繁華街に出ることが出来た。ゴールデンタイムの中、華美な光に輝く繁華街は、仕事帰りのサラリーマンやOL、大学生で賑わっていた。人が一体の流動物のように感じられた。
相変わらず、僕は人混みが苦手だ。けれども、人の波の中に飛び込まなければ約束を果たせないということも分かっていた。だから嫌悪感を無理やり押し殺して、人の波の中に身を任せた。
あとは昨日のぼんやりとした記憶を頼りにしながら、何とかあの裏路地に到達した。そしてシックな雰囲気のレンガ造りの店に入った。
「おっ! 潮、約束破らずに来たんだ」
ぽつぽつと人が入っている店に入るや否や、光さんは僕に声をかける。
光さんは昨日と、全く同じ席に座っており、僕が昨日座った席も丁度空いていた。カウンターの空席の隣には、ダンディーで上品な雰囲気を漂わせる二人のおじさんが並んで座っている。きっと、光さんが僕のために席を取っておいてくれたんだろう。
ほんのり感じる優越感に浸りながら、僕は光さんの隣の席に座る。
「約束は、破らな……、出来る範囲で破りませんよ」
「あはは! そうだね、潮は出来る範囲では破ったことないもんね」
店内のおしとやかな雰囲気を壊すような溌溂とした笑い声を、光さんは無邪気に上げる。
「だから、今回のことは潮の出来る範囲じゃなかったから仕方がないね」
ただ光さんの笑みは、衝動的なものだったらしく、歳不相応の無邪気さは失われる。代わりに、画廊のような店内に似合う哀愁に満ちた大人びた表情を浮かべる。
緩んだ目じり、悩みを吐き出そうとする口元、頬杖をつく仕草、そうした光さんの仕草は、僕の目を奪う。同時にすべてを肯定したあの嘘から、僕はやらなければならないことを思い出す。
「すいませんでした」
深々と、僕は光さんに頭を下げる。
「ん? ああ、そっか。そうだね。大丈夫だよ、怒ってないし」
「ありがとうございます」
「まっ、とりあえず頭を上げてよ。こんなに良い雰囲気なのに、色々と台無しになっちゃうしさ」
従順なしもべの言葉に、ついさっきの約束を光さんは思い出して、言葉を返す。僕は光さんの反応に、チクリと胸が痛む。
こんな関係は僕も光さんも望んでいない。上下関係だとかは、僕と光さんの間に不要だ。けれど、対等という関係もまた違う。
ああ、そうだ。
僕と光さんは先輩と後輩っていう漠然とした関係の延長線上を欲しているんだ。そしてその関係は、今の今まで、僕が独善的な感情で壊すまで保たれていた。
馬鹿だ。どうして僕は唯一のよりどころを一時の感情に任せて壊したんだ? あまりにも馬鹿だ。無知だ。蒙昧だ。
けれど、やってしまったことはどうしようもない。一度粉々に壊したものを再び元通りにすることなんてできないのだから。
鋭い痛みを胸に覚えながらも、僕は光さんの言葉に従って顔を上げる。
「それと、その表情も止めなよ。もっと明るく、笑ってさ」
光さんは僕の口元に両手を伸ばして、一文字の僕の口角を人差し指で無理やり上げる。
「や、やめてくらさい」
「ふふふ、やっぱり潮は笑顔で居た方が良いよ。笑顔で居た方が、きっと絵も上達するだろうしね」
手を払うことも出来ず、僕は光さんのどこか悲し気な笑みを見続ける。自分を隠そうと、自らを覆う笑みに。
ただ光さんは、自分の行動に恥じらいを感じたのか、頬を赤らめる。そして僕の口元から慌てて手を離す。
「そういうものなんですか?」
「多分、きっとそうだよ。だって、沈んだ気分で絵を描いたって沈んだ絵しかできないでしょ。私としてはムンクよりモネの方が、良い絵に見える。まっ、私個人の感想でしかないんだけどね」
そして光さんは頬杖をつきながら、哀愁に満ちた声色で答える。
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