confuse

 震えるスマホに、微かな怒りを覚える。

 僕の夢とそれを包み込む幻想が叶さんによって壊されることを知っていたのにもかかわらず、僕に叶さんと接触するように勧めてきた恩人に腹が立って仕方がない。独りよがりな怒りでしかない。

 独りぼっちで恩人に苛立ちをぶつける不道徳な状況に、逃げようない怒りに僕は下唇をかみしめる。じんわりと広がる痛みに、唯一僕は自身の怒りが晴れてゆくことを覚える。力む体からも、徐々に徐々に強張りが解けてゆく。

 怒りは痛みに変わり、大雑把に僕の中から消える。息が少し上がっている自分に呆れる。

 くだらない。

 全部自分で決めたことなんだ。例え、光さんが道を示してくれたとは言え、道を歩くことを決めたのは僕自身なんだから。

 気だるい溜息を茜色の空に向けて吐き出す。いつの間にか、夕焼けの中に黒味が加わり、黄昏の時間は終わりに近づいていた。

 胸に溜まるフラストレーションを収め、気だるい手つきで苛立ちの象徴の電話を取る。口ごもるかもしれないけれど、会話を試みよう。僕の幻想を応援してくれた人に仇を返すわけには行かないから。


「もしもし……」


 自分に恐れる言葉は、細く消えゆく言葉だった。


「元気ないね、潮。まっ、大体何があったのか想像がつくんだけどさ」


 僕の声に反して、光さんの声は普段通りの明るい声色だ。 


「そうですか……」


「そうだよ。だからこそ、少年、今君が私に思ってることもなんとなく想像がつくんだよ。そして謝るよ、ごめんね。潮、君が芸術家に抱く立派な幻想を打ち砕いちゃってさ。自由な表現を出来る人は、人を愛し、物を愛し、観察することが出来るなんていう絵空事を壊しちゃってさ」


「……」


 光さんの謝罪に、僕は何を言い返せば良いのか分からなくなった。

 予想通り言葉は喉に詰まり、口ごもってしまった。

 幻想は確かに壊されたし、このことで光さんに怒りを覚えたことも間違いないことだ。けれど、光さんは何も悪くない。悪いのはただ幻想を打ち壊され、挫折を真正面から指摘されて、虚無感を抱いて逃げ出した僕だけなんだ。光さんも叶さんも、誰も悪くないんだ。

 だから、どうか、僕を慰めるような声色で謝らないでほしい。


「怒ってる? まあ、怒ってるよね。前任者たちも全員、例外なく、漏れなく怒ってきたし」


 脳裏に髪を指で弄ぶ光さんの暗い表情が浮かぶ。


「止してください。僕は別に、怒ってませんよ、何とも思ってませんよ。ただ、あの人の、叶さんの態度が気に食わないだけです」


「ああ、あれ? 生まれた時からあいつは、あんな感じだったよ。幼稚園の頃も、小学校の頃も、中学高校大学と全部自己中心的で、無自覚に人を見下す人間だよ。けど、知っての通り芸術的センスは抜群。だから誰にも文句を言われず、許されてきたんだよ。両親、私も……」


 自身が見過ごしてきたことに光さんは、反省の声を漏らす。消え入るような声は、溌溂とした光さんには、あまりにも似合わない。仄暗さは光さんには要らない。光さんは、名前の通り輝くべきなんだ。

 光さんの自己嫌悪は、僕を苛立たせる。叶さんと同じように、僕に無いものを持っていながら僕のような落ち込み方をする恩人が恨めしいんだ。けれど、僕は生まれた鬱憤を言葉として吐き出すことは出来ない。下唇を嚙みしめて、詰まりが治った口に物理的な栓をする。なんだか滅茶苦茶な気分だ。

 

「まあ、だから今回の病気があいつの腐った性根を叩き直してくれるんじゃないかって期待してたんだよ。芸術以外何も持ってない人間が、芸術を奪われたら真っ当な人間になってくれるんじゃないかってね」


「けど」


「そう、何にも変わらなかった。それどころ幼いあいつの精神には、軋轢が生まれちゃった」


 子供を慰めるような優しい言葉を光さんは漏らす。


「軋轢ですか……」


「元から歪んでたんだけどね。男だけれど女の格好をしたがるし、一度集中すると周りの声が一切聞こえなくなるし、自分が美しいと思ったものは妥協無く追及するし、色々な面で歪んでるんだよ、あいつは」


「歪みなんですか?」


「歪みだよ。いや、私たちが歪んでるのかもね」


 天才を理解できない自分を自嘲するような光さんの言葉は、僕に共感を思い起こさせる。同時に叶さんがあの時言っていた、凡人として天才を見るということの意味を理解した。

 天才の世界観なんて、凡人からすれば歪んだ世界に過ぎない。

 凡人の理想的な芸術が真っ直ぐな道だとしたら、天才の現実的な芸術は歪み切った道なんだろう。ぐちゃぐちゃで、予測できない道が天才には見えているんだ。

 僕はこの事実を昨日今日で初めて見たんだ。だからこそ、小さいころから年下の天才の歪みを直視してきた光さんの苦悩が、なんとなく分かる。


「そういえば、あいつが男だってこと言ってなかったね」


「驚きましたよ。あんなに美しい人が男だなんていうのは」


「現代から外れた意見だけど、確かにそうだね」


 変わりゆく世の中に反する僕の言葉に、光さんはクスリと笑う。

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