hurt

 色目気だった叶さんの言葉で、僕の感じ得ていたことはすべて証明される。これに僕は動揺して、突発的に、感情的に、叶さんの拘束を振りほどく。そしてまた、僕は後ろに退き、ガラス戸が背中に来るまで退く。

 急に振り払われた叶さんは、目を丸くして驚いている。

 誰だっていきなり後ろに吹き飛んで、わなわなと震えている人の様を見ればそうなる。本当に変わらず、誰だってそうなる。

 驚愕に震えている中、僕は叶さんを見つめ続ける。いつの間にか、僕の知らないうちに、叶さんは澱みの中に居た。目は暗く、破滅とでも言えばいいのか、そんな雰囲気を纏っている。

 体中に嫌な雰囲気を、それこそ嫌悪感を抱くあの人に僕は慄く。ぶるぶると震えて、尻すぼみ、その場で震える。ただただ僕は、叶さんという人が纏う雰囲気に縮こまって凍える。


「君は……、ああ、やっぱりそうだ。君も僕を認めてくれないんだ」


 憎悪というべきか怨念が籠った叶さんの言葉に、僕は退路を求めてもう一度退こうとする。けれど、もはや逃げるべきところは無い。僕の退路は断たれ、あるのは大きな不快感だけだ。

 強烈な存在感でリビングを叶さんは灰色に変える。不思議と視界も灰色になる。全てが濃淡の灰色でしかなく、彩はすべて失われている。

 ありとあらゆる色が失われた世界で、叶さんは僕を蔑んでいる。同時に憤りも抱いているようにも見える。


「そうだよ。そうだ、そうに違いない。やっぱり、あれは、そう、僕の自惚れだったんだ。こいつなら、何の才能もない凡人なら、背景画も驚くほど凡で、人物画に至ってはあまりにも下手くそな、凡人なら天才の僕を、天才として受け止めてくれるような気がしたのは、所詮僕の自惚れだったんだ。けど、やっぱり……、いやそれすらも自惚れだ」


 華奢な足を伸ばして、立ち上がった叶さんは怨念を独りで呟く。

 呪詛のように紡がれる叶さんの独り言は、もう、冷静になって、分別のある判断が下せる状況になった今、どういった意味が含まれているのか大体分かる。僕は叶さんの幻想を破ったんだ。

 そして、いや、こんなのは、僕の自己弁論に過ぎない。僕が、僕の突発的な感情でやってしまったことをどうにかして肯定してやりたいだけの話だ。だから、こんなことを言うのは、おかしいことだって分かっている。

 けれど、叶さんは僕の幻想を、大成した芸術家という理想を壊した。

 等価交換だ。


「す、すみません。帰らせてもらいます」


「ああ、帰ってくれ。早く、一刻も早く、さっさと、僕の目の前からいなくなってしまえ! 早く行けよ!」


 渦巻の様ならせん状の怒りを叶さんは発する。

 昨夜、アトリエで受けた怒りと同種類の怒りだ。傲慢で、独りよがりで、自分だけを見て決めつけている怒りだ。

 僕は昨夜みたいに物がこちらに飛んでくる前に、動きそうで動かない痺れた足を引きずりながら、机に置いたわずかな荷物を全部取ってリビングから大慌てで出てゆく。

 リビングの扉をばたりと閉じると、中から罵詈雑言が聞こえる。それは僕に向けられたものであり、光さんに連れられてやってきたかつての人たちに向けられたものだ。

 僕は強く瞼を閉じて、目に溜まった疲労と叶さんに言われた事実のやるせなさをこらえる。けれど、こらえようと思っても、虚無感は僕に悲しみを与え、涙を与える。

 分かり切っていたことなのに、分かっていたはずなのに、僕はそれを分かっていなかった。いや、分かろうとしていなかった。美大に入って挫折して、そこから目を逸らして、自分自身の言葉と自分を支えてくれる人の言葉に酔っぱらって、現実逃避をしていたツケが今、回ってきただけの話に過ぎない。

 こみ上げてくる自分に対する虚無感と悲しみは、僕の胸を押しつぶす。絶え間ない苦しみが、掴みかけた一縷の希望を切り裂こうとする。


「……ああ、帰ろう」


 強く閉じて過ぎて若干の痛みすら感じる瞼を開ける。

 さっきまで灰色に満たされていた光景には色がついている。これに安堵して、同時にやっぱり自分が叶さんの相手をするには向いていない人間だということを認める。

 僕はあの人に認められた人間じゃない。

 僕はあの人の期待に応えられるほどできた人間なんかじゃない。

 諦めを抱き、靴を履いて、苦痛の筵から抜け出る。

 茜色に染まった夕焼け空はどこか不気味で、濃く大きく伸びる影は僕に暗い影を落とし込む。一生涯をかけて望んでいたものが、虚栄に満ちたものだと知った中、うつむきながら駅に向かって歩き出す。

 とぼとぼと歩く生気を失った人は、通りかかる人全員に不気味に映ったと思う。もちろん、僕もそう思っている。

 あの家から十数分歩いて、蓄積された疲労が重荷として感じられるようになったころ、スマホに着信が入る。力の入らない手と、血糖値が極端に低い体は着信音に苛立ちを感じる。いっそのことスマホを地面に叩きつけてやりたい気にもなる。

 事実、今僕は立ち止まって床に向かってスマホを投げつけようとしている。衝動的に動こうとする右手を、左手で押さえて何とか僕は堪える。

 力む体から何とか力を抜いて、落ち着き、僕はブルブルと震えるスマホの画面を見る。


「光さん?」


 照り返しの強い画面には、僕の夢を応援しながらも、壊した張本人の名前が表示されている。

 

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