experience
「痛ッ……」
驚くほど華奢な叶さんの体が折れてしまったのかと思った。だから、天才の後頭部に回した右手をそっと抜いて、体を起こして確認する。痛みを訴える叶さんを心配して顔を覗くと、眉をしかめて、確かな痛みを感じていることが分かる。
目をきゅっと強く閉じて痛みを感じている叶さんだけれど、どうやら後に残るような重大な怪我は負って無いらしい。
ほんの一瞬だけ覚えた全身を凍らせる未曽有の危機感は、僕の身から引いて行く。天才に怪我を負わせ、芸術の道を一時的にでも断念させたなんて言うのは、僕の命を払っても贖えないことだ。
この人を傷つけなくて本当に良かった。
「大丈夫ですか?」
「まあ、大丈夫だよ。背中は痛むけどね」
安堵のため息が混じった僕の声に、叶さんは全然注意を向けず、自身の痛みをちょっとだけ詳しく伝えてくる。傷つけていないと思っていても、やはり少しは、ほんの少しだけは傷つけてしまったという事実に良心の呵責を覚える。
平然と、けろりと、むしろ笑っている叶さんにも罪の意識を感じる。自分の心に今、僕は自分の人格が歪んでいないことを確認する。だからか体に走っていた一種の緊張は解れる。
「それはそうとしてだ。そろっと手を放してくれないかな? ほら、左手、流石に胸に置かれたままだと痛いんだよね」
ゾッと冷や汗を背中にかきながら、恐る恐る視線を左手に向ける。
そこには言葉通り、光さんの平べったく薄っぺらい左胸に僕の左手が置かれている。
「えっ!」
咄嗟に手を離して、思いっきり、飛ぶように後ろに退く。
「そんな驚かなくてもいいのに。別に減るもんじゃないしさ。使えるものでもないし。僕としてはどうだっていいことだよ。ただ、姉ちゃんにやるもんじゃないよ。僕だから許されてることなんだからさ。もっとも潮なら、こんなことをせずとも姉ちゃんに同じことが出来るかもね。あんな表情の姉ちゃん、前の彼氏にも見せてなかったし」
上体を起こしてケロリと笑いながら、何か光さんに関係することをぺらぺらとリラックスしながら叶さんはしゃべる。けれど、残念なことに耳に入る情報は全部耳から抜けてゆく。緊張でそれどころじゃない。
「うん? ああ、そんなに怯えないでよ。僕はどうとも思ってないからさ。だから、今まで通りで居てくれよ」
「いや、あの、え?」
半分錯乱状態に陥りながら発する声は、自分でも情けないと思う。
本来とは逆の状況に、叶さんは立ち上がって呆れたため息を吐き出す。そして、叶さんは一歩大きく前に踏み出し、尻込む僕の前に立つ。見上げるとやっぱり呆れた表情を浮かべる叶さんがいる。
と確認したところ、叶さんは急に屈んで僕と視線を合わせる。透き通った黒い瞳は、僕の視線をぴったり合う。心臓は緊張で張り裂けそうだ。
当然、叶さんが僕の感情を読み取れるはずはない。叶さんは僕の左手をいきなり取ると、再び左胸にあてがった。硬く、平べったい、僕と同じような痩せっぽちの胸の感触と心臓の鼓動が左手から伝わってくる。
「な……に、をしてるんえすか?」
呂律が回らない僕は、息詰まって飛んだ言葉と母音混じりの言葉を吐き出す。自分が悪いのにもかかわらず、勝手に縮こまる僕を、叶さんは長い黒髪を指先で弄びながら笑う。
「証明だよ。君が慄くことの無いように、そしてこれまで通り僕と接してくれるようにするためのね。ただそれだけのことさ。だから、ほら、感じてよ」
叶さんは言葉足らずに、現状を納得するように諭してくる。残念なことにこんな状況で、言葉の綾を読み取れるほど僕は出来ていない。
ただただ僕の頭は、僕自身の心臓の鼓動と叶さんの心臓の鼓動に揺れ動かされる。そのせいで目の焦点は合わないし、もう一回、今度は自分を守るために意識を失いそうになる。こんなに冷静なのに、酷く混乱しているんだ。
「ああ、でも、そっか。これじゃあ、分かりにくいか」
繊細な手を叶さんは、僕の左手から離す。
混乱を引き起こす要因の一つから、僕は解放されたような気がした。けれどそんなのは、束の間の休息らしい。
支えを失っても引っ込めるにも引っ込められず、外力を待ち続ける僕の左手を叶さんは再び掴む。力強く掴まれたことに僕はギョッする。唐突な外力にショックを受けると、僕の目の焦点は一気に叶さんに合う。
叶さんは頬を赤らめている。心なしか目も潤んでいる。
意味が分からない。
意味不明な表情変化と言動と色々な要因に、頭の中を滅茶苦茶にされたまま叶さんは僕の左手を、意のままに動かす。
「これで完全な証明だね」
叶さんは僕の手を、覗かせる絹のような肌だけれど細くて今にも折れそうな足の間に導いて、禁忌の領域に触れさせる。
ジーンズの硬い感触と、何かしなやかで柔らかく同時に慣れ親しんだ唯一のものの感覚が手に伝わる。
「んっ」
大混乱に陥りながら、必死に何かを探ろうと僕は左手を痙攣させるように、ほんの少しだけ動かす。予想しなかった動きに、叶さんは嬌声に似た甘い声を漏らす。
脳天を刺激するアルトの嬌声に、僕は叶さんが伝えようとしたことを理解する。そして、今自分が触れている人がどうして自身の裸を見られても、胸を触られても何も思わなかったのかを全て察する。
ああ、かつて読んだトーマス・マンのある小説を思い出す。
「ほらね、悪く思うことは無いんだよ。僕は男だからさ」
甘く、妖艶で、悪魔的な恍惚とした表情から紡がれる真実に、僕は衝撃を受ける。
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