develop

 色を塗り終え、線画はイラストとして完成した。

 それから名も知れぬ依頼主たる出版社にデータを送り、活動報告の一端として、ツイッターに森のイラストを投稿し終えた。視線をガラス戸に向けると、空はすっかり赤らんでいた。朝から夕方まで集中を切らさずやった作業に、体は疲労を覚えた。特に骨が浮かび上がった尻に感じる痛みは、そこそこ辛いものがある。

 凝り固まった体をグッと天井に向けて伸ばす。ボキボキっと凝り固まった関節の伸びる音が、誰も居ない閑静なリビングに響く。同時に空腹を訴える音が、腹から鳴る。

 浮き彫りとなる疲労と空腹、そして喉の渇きを前にして僕は後ろに倒れる。

 やる気も何もない。

 虚しい作業を終えて、芸術の大成とかけ離れた作業に時間をかけ、無為に時間を過ごしたことが僕の生気を奪い取る。無気力が体の上に重くのしかかる。


「はあ……」


 けれど、動かなければ餓死してしまう。

 清潔で衛生的な空間に居るのにもかかわらず、食料を買う金もわずかばかりあるのにもかかわらず、餓死するなんていうのは世間に申し訳が立たない。

 あほらしい冗談は疲れ切った脳みそに、どういう訳か作用する。光さんの冗談よりもつまらない自分自身の冗談に、僕はニヤリと口角を上げる。

 きっと、傍から見ればおぞましいと思う。もっとも、他人がたった一人しかいないこの家で、薄気味悪い表情を誰彼に見られることは無いと思う。

 だから、しばらくは、空っぽな心が余裕を取り戻すまでは慰め程度に笑っていよう。

 

「潮ー」


 そう思っているのも束の間だった。

 足音無く、物音無く、忍者のように叶さんは、あくび混じりの間延びした声を発しながらリビングに入ってきた。

 咄嗟のことに、僕の全身は硬直する。当然、表情も全部、何もかもが衝撃という瞬間接着剤で固められる。


「なんで一人で笑ってるんだ?」


「少し愉快なことがありましてですね……」


 朝の不機嫌とは打って変わって、叶さんは上から覗き込んでくる。

 くすみ一つない病的なまでに白い叶さんの肌は、夕焼け色に浸されている。僕はそんな肌に、懐かしさを感じる。同時に恥もこみ上げてくる。

 体中の体液が煮えたぎるほど熱くなるような錯覚を覚え、僕の体は徐々に赤らんでゆく。急速に熟れてゆく、小さくみすぼらしいトマトみたいに。


「ふーん、変だね君は。今日の朝と言い、夜のことと言いさ。変わってるよ君は」


「あなたの方がよっぽど変わってますよ」


「知ってるよ」


 幸運なことに、差し込む夕日色は僕の顔色を打ち消してくれた。

 叶さんは、苦し紛れの僕の言葉に微笑むと注目を僕から逸らして、手を天井に向けてグッと伸ばす。そして気の抜けた言葉にならない声を漏らす。


「それで、今日の夕ご飯はどうするんだい? 君が作ってくれるの?」


「作っても良いですけど、大したものは作れませんよ」


「そっか。でも、作ってよ。久々に手料理が食べたい気分だからさ。昨日今日で、逃げなかった中々に強い心臓を持つ人の手料理をね」


 濃厚な橙色と濃い影は、叶さんの表情をも消す。けれど視覚的な表情が見えなくても、叶さんの楽し気な言葉で大体の表情は想像できる。

 見えない人のリラックスとした声から気付きを得ると同時に、一つの疑問が浮かび上がる。


「僕を試していたんですか?」


「うん? ああ、違うよ。それは君の自惚れに過ぎないよ、潮。僕は本当に君の言動に腹が立っていたよ。けど、大抵の人はあれっきりで、僕の傍を離れていったからさ」


 凛とした声で僕の自惚れを指摘したと思いきや、叶さんは芯の崩れた脆い言葉を呟く。


「どうして凡人は天才の言葉一つで消えるんだろうね」


 けれど次の瞬間、叶さんの放った脆い声は僕の感傷的な気分を壊す。


「まっ、それでだ。君は料理を作ってくれるのかい?」


「作らせていただきますよ」


「そうこなくちゃ。やっぱり人が居ると便利で良いね」


 自分の言葉に悪意無く笑う一人の天才に、僕は自分がこの人と理解し合えるとうぬぼれたことに後悔を覚える。

 少なくとも僕は、人に対する認識がずれているこの人とは違う。

 人間性が歪んだ人に使える従順な従僕こと僕は、その人の願いを叶えるために倦怠を纏う体を起こす。相変わらず尻は痛いし、肩が張って辛い。けれど僕は、光さんのためにこの人と向き合わなければいけない。

 そうだ、僕は別にこの人のために動いている訳じゃない。僕は光さんのために、僕という夢すらも手放そうとする人間を見捨てずに匿ってくれている人のために、動こうとしているんだ。

 栄養が欠乏している体は軋む。上体を起こしたところで、立ち上がるという動作に中々移れない。行動が億劫で仕方がない。


「大丈夫? 立てるかい?」


 人格破綻者とは思えないほど、柔らかい微笑を浮かべ、僕の手を拒絶した手を叶さんは伸ばしてくる。

 僕はその手を取ることを躊躇う。

 けれど僕は従順な従僕だ。

 だからこそ、その手を取るという義務がある。


「ありがとうございます」


 叶さんの手を取り、倦怠と拒絶を纏う体を僕は奮い立たせ、自立しようと試みる。援助として叶さんは、引力を僕にかけてくれる。

 何とか僕は立ち上がって、叶さんから手を離す。叶さんは、相変わらず僕に微笑んでいる。

 体は強張る。

 意味の分からない苛立ちと、原因不明の嫌悪感がこみ上げ、その対象を叶さんと定める。


「あ、やばい」


 ただ疲れ切った体に、理解不能な怒りの感情は不釣り合いだった。

 頭の上ってきた栄養の入っていない血は、僕の平衡感覚を麻痺させる。


「ちょっと!」


 そして怒りの対象に、嫌悪すべき対象に、欲しくて欲しくてたまらないものを持っている人に向かって、不可抗力的に僕の体は吸い込まれてゆく。

 何とか動く右腕を僕は、叶さんの後頭部に回す。

 ばたり。

 僕は叶さんを巻き込んで床に倒れた。

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