plan
突き放すような言葉と、あのアトリエの下書きに向けていた殺意は僕に押し寄せてくる。冷たくて、尖った痛々しさの集積物は、臆病な僕にとって耐えられるものではない。一瞬の勇気に支えられ、やっと人のことを止めることが出来た臆病で矮小な存在の僕に、絶対的な意思と行動力を持った叶さんを止めることは出来ない。
力強く握力を込めていたはずの僕の手は、叶さんの手首からそっと離れる。持ち上げた勇気は、僕から失われる。
「変な気は起こすなよ。潮、君はただ僕を手助けしてくれれば良いんだ。逆に言えば、それ以外で僕に干渉してくるな」
僕に掴まれて赤くなった手首を忌々しく摩りながら、叶さんは僕に言葉を吐き捨てる。
反論できるはずだ。反論したい。
けれど、僕の小さくて、弱々しい僕の精神は叶さんに何も言い返せない。本来、出なければ行けない叶さんに対する言葉は僕の中に押し止められた。
言葉すら発せず、分かり合えると思った人の温もりだけが残る手を、僕は過去の栄光に縋るように虚無に伸ばすだけだ。そして叶さんは、僕を拒絶する視線を絶え間なく送る。
侮蔑は絶え間なく僕の体を傷つける。ただ、僕を傷つける叶さんは、僕に対する興味を失ったらしくため息を吐いて颯爽とアトリエに向かった。
一人残された僕は、ただ小さくリビングに立ち尽くす。
清々しいはずの朝は、この短時間ですっかり壊れてしまった。心にぽっかりと虚ろな穴が開いた僕にとって、青空も白い太陽もモノクロに見える。曇天と何ら変わらない空が、寂しく横たえているだけだ。
朝から暗くなり、今後のことに関しても暗い思いしか抱けない。
一寸先は闇で、先行きはどうしようも無く不安定だ。
今後の人間関係は、その一端すら重厚な暗幕に隠されている。予測できない演出と題目に、臆病は震える。
「はあ……」
叶さんの冷たい雰囲気が消えると、臆病な僕も息を潜める。そして四角張った全身からも程よく力が抜け、自然と体はへなへなと床の上に決められた運動のように崩れてゆく。
眩暈の様な脱力感に若干危機感を覚える。たった一回の、それも一方的な衝突で、ここまで自我を摩耗させられるとは思わなんだ。ただでさえやつれた体は、さらにやつれたように感じる。これ以上のストレスと貧乏は、皮と骨だけの新生物に僕を生まれ変わらせてくれると思う。
歪な輪廻転生が、僕の緊張から解れた脳裏に思い浮かぶ。まだ死んでも居ないのに、そして死ぬ予定もないのに。
ただその歪で、個人的な仏教思想は、下らない僕の感傷を癒す。
後頭部を殴られたような衝撃から僕ようやく回復する。
「はあ……」
理解し合えると思っていた人から突き放されて、口からこぼれたのはため息だった。
「やらないとだ」
漏れ出した溜息はどうやら叶さんから受けた痛みを、全てとまではいかないけれど、ある程度収めてくれた。同時に僕がやらなければならないことを思い出させてくれた。
一縷の糸に希望を任せている僕という存在が、糸たる希望を手にするために必要な芸術ということを。いまだ形とならない芸術を僕はなさなければいけない。
そのために光さんは、ここに僕専用のパソコンを置いてくれたんだ。僕の大成を、僕が世に立つことを望む光さんは、そのためにわざわざ僕のパソコンを置いてくれたんだ。僕を体裁だけでも芸術の世界で生かすために。
お世話になっている人の期待に応えるため、立ち上がり、僕はデスクの上に置かれたパソコンを前に座る。十五インチの黒い(最新式で、僕が使っているデスクトップのパソコンと性能的にほとんど遜色のない)ノートパソコンを開き、電源を入れる。そして、まさか貸してくれるとは思ってもみなかった傍らに置かれた液タブをパソコンに接続する。
「なんだこれ……?」
コードを入力することなくログインできるパソコンに危うさを感じながらも、森を背景にしたデスクトップに並べられた無数の有料ペイントソフトに目を丸くする。
しかし、それを僕が扱うことは出来ない。
僕はこの奢侈なアカウントからログアウトし、僕自身のパソコンのパスワードを入力して、僕のアカウントに再ログインする。あの乱雑で、希望も見えないような安アパートの一室で使っていた時と同じ画面が、デスクトップに表示される。
そして液タブとパソコンとの諸々の設定を完了させ、有料だけれど普通のグレードのペイントソフトを起動し、書きかけのイラストを立ち上げる。
「あとは色塗りだけだったけ……。いや、こんな構図の絵に色塗りをしちゃダメだ。こんな構図の絵に色を塗ったところで、なんの面白味もない風景画にしかならない。もっと大胆で、美しい、雄大な自然が感じられる構図を探すんだ」
表示された線画の森のデータを削除しようと、カーソルを動かす。
だけれど僕は削除の二文字を目の前にして、勇気で体を奮い立たせることが出来なかった。
名前も知られていない月刊誌の一ページのほんの小さなイラストに、しかも締め切りが明後日に迫る状況を前にして、僕は立ちすくんだ。
同時に自分の努力がすっかり失われることを恐れた。
怖気づいた僕の手は不承不承ながら、削除から離れ、手はペンに向い、視線も液タブに向かう。
こうして僕はまた、自分で納得いっていない作品を自分のせいで作ることとなる。
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