soft
嘘に飾られた叶さんの言葉を受けた僕の体は、蛇に睨まれた蛙のように動かない。一切の身動きは、叶さんの視線によってキャンセルされる。瞬き、呼吸さえも、僕の肉体から乖離した。
生理的反応すら凍え、震える中でも僕はなんとか呼吸だけは取り戻した。気道は弛緩し、新鮮な空気が肺にたっぷり流入する。
ただ、呼吸は荒くて、息も絶え絶えで、意識も少し朦朧とする。視界は霞んで、叶さんの美しさはおぼろげな印象となる。光と影だけが支える酷くぼんやりとした、額縁の中でしか生きれない絵のように。
「大丈夫?」
主観的に曖昧な印象となってしまった叶さんは、心配の声と共に手を伸ばす。
「ええ、問題ありません」
細く長い指が特徴的な才能籠る差し伸べられた叶さんの掌を、僕は取れなかった。
僕は、僕自身の凡俗な才能で天才の手を汚すことは出来なかった。僕の個人的な印象でしか無いけれど、その個人的な印象は茨のように僕の認識に巻き付いて、その棘で僕を痛みつける。その痛みが僕の行動を抑制する。
好意を無碍にされた叶さんは、一瞬眉をしかめると、ダイニングキッチンに向かった。昨夜、光さんが整理したキッチンに。
食器立てに並べ立てた白いマグカップを叶さんは手に取って、少し乱暴にレバーを上げて水をカップに注ぐと一思いに飲み干す。ごくりごくりと鳴る叶さんの細い喉に、僕は強烈な性を感じる。
「ふー、ご馳走様」
「え?」
「え?」
耽美的な感覚は、僕にとってはそのあと叶さんが告げた信じられない言葉に上書きされた。その上書きの結果、僕の口からは素っ頓狂な声が漏れて、そうした僕の声と同調するように叶さんも驚きの声を返す。
互いに間の抜けた声を漏らし合った僕らは、頭の上に疑問符を浮かべる。そして僕は眉間に皴を寄せ、叶さんは首を傾げる。
「え? 何か変だった?」
自分の発した言葉の異常性に気付いていない叶さんは、目を丸くさせながら疑問を返す。
「いや、え? それが朝ごはんですか?」
「うん、そうだよ。基本的に僕、朝ごはん食べないからさ。まっ、昼も夜も食べない日もあるけどね」
信じられない解答に僕は目を見開く。
「そんなに驚くことかい?」
「いや、驚くというより、ええ? 本当に何も食べない日があるんですか?」
「うん。そもそも、食べるっていう行為があんまり好きじゃないからさ。両手は塞がるし、熱い食べ物だったら冷ます必要がある。無駄な時間だよ。意味のない時間に人生を浪費するくらいなら、僕は筆を握るよ」
マグカップを水ですすぎ、再び食器立てに逆立てると、叶さんは澱んだ目で自分の掌を眺める。その仕草は叶さんが紡いだ克己な力強い言葉の印象から、かけ離れている。
僕は何か言葉をかけようと口を開こうとする。生活を投げ出してまで大成した芸術を、病気という不幸によって否定されている叶さんを、少しでも労う言葉をかけようとする。ただ、二面性的な動作とありえない食生活にあっけを取られて、僕の口は動かず、喉が空気を通過する掠れた音が鳴るだけだ。
「ああ、そうだ。昨日はごめんね」
何もできない羞恥心に包まれる僕に、叶さんは話題を切り替える。
「いえ、あれは僕の無遠慮が原因です。だから、あれは僕が悪いんです」
叶さんの優しさに僕は二重の恥を感じる。
同時に僕は、光さんが叶さんを評した言葉に疑問を抱く。僕はこの人の性格が、いわゆる社会不適合者のようには思えない。
この人は優しくて、人を思い測れる人間だと思う。むしろ、この人は並の人間よりも優しい人だ。
「……まっ、君の理解がそれでいいなら僕はこれ以上追求しないよ。追求する意味も無いし」
「ありがとうございます?」
「うん、その反応が出来れば上出来だよ」
柔らかい笑みを浮かべながら、叶さんはグッと天井に向けて腕を伸ばす。しなやかな体が、弓形に曲がる。
「さあ、それじゃあ仕事に取り掛かろうか」
そして、叶さんは虚ろな目でリビングの出入り口を見つめる。
僕はその叶さんの表情に、ゾクッと悪寒を抱える。何かとてつもなく冷徹な意思が、リビングの先、アトリエまで到達し、あの下書きを射抜いているように感じられた。それは実際に感じたことがないけれど、殺意に似ているように感じられる。
同時に僕は叶さんの危うさを感じた。身体的な面ではなく、精神的な危うさをだ。酷く消耗した精神を擦り減らして、到達してはいけない部分まで消費しようとする残虐で、強烈な印象を受ける、。
「待ってください!」
叶さんの危うさに、僕は手を伸ばせた。
掠れた音の代わりに、歩み出そうとする叶さんに精神的な待ったを掛ける言葉が出たし、叶さんの手首をつかむこともできた。
「なんだい? 僕には時間が無いんだ。一分一秒でも惜しいんだ。それに君、僕が君に優しく接していることに勘違いしちゃいけないよ。僕は僕自身のために、前回とか前々回とかと同じ轍を踏まないように行動しているだけなんだ」
冷徹な叶さんの言葉に、僕は臆する。
「僕の芸術家としての一秒は、君の一日に匹敵するんだ。だから、その凡俗な手を僕の手から放してくれ」
冷たく、高慢な叶さんの言葉に僕は光さんの評した言葉を思い返す。
そして、光さんの評価が正しいことをひしひしと感じた。
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