wet
整然と積み重ねられた書類の束が並ぶ硬い床の上で、僕は一夜を過ごした。痩せた体にとってフローリングは痛かった。背骨と尾てい骨が、床に当たって僕に痛みを与えてきた。
この僕の痛む様を光さんは笑った。正直、苛立ったし、何かの不幸が光さんに降りかかれと一瞬思った。けれども、ここまで僕を支えてくれている人が、僕の痛みで笑ってくれるならということで苛立ちを抑えた。自己犠牲のお笑いを光さんが望んでいないことを知っていながら。
ともあれ、僕は何とか衝撃的な夜を乗り越えて、ラジオ体操曰く希望の朝を迎えた。確かに朝は晴れ渡った青い空と、白い太陽がきらきらと輝く美しさに彩られて希望を演出している。
ただ、いかんせん背中が痛くて仕方がない。だから希望の美しい朝も、継続的な痛みに台無しにされる。
「おはよ、少年」
微睡の中で目覚めた光さんも、どうやら気分は僕と同じらしい。
あの人と良く似た美しい表情に、僕は一瞬驚く。昨夜はあんなに腹だった相手なのに、いざ起きてはにかめば、痛みの皴が刻まれたはにかみでも、美しく感じられるなんて言うのは、人間の認識に対する不思議を感じる。
「おはようございます」
「それにしても、男女二人で何も起きないって中々面白いね」
「冗談は止してください」
「冗談じゃないって言ったら?」
明らかにふざけた口調、三文芝居のように大胆に体をよじらせ、光さんは僕の首に腕を回す。ナンセンスな光さんの演技に、僕はドキッと心臓が脈打つ。このまま演技に流されてもいいような気がする。
「冗談ですよ。数年の付き合いですけど分かります」
「本当に?」
艶やかな嘘は、心地いいはずの朝をさらに汚す。
どうしてか、昨日のお笑いよりもこの光さんの嘘の方が僕にとって腹が立つ。
「本当です。光さんは朝っぱらから本気で人を誘惑できるほど器用な人じゃありませんから」
自分でも理解できない。自分でもどうして不機嫌な声で、僕の首に回された腕を振り払ったのか、自分でも分からない。
「ふーん。潮、言えるようになったじゃん!」
これ以上に意味が分からなかったのが、僕の否定を受け取った光さんが意気揚々と立ち上がって、活発に笑いながら僕に指をビシッと指していることだ。
「……」
唐突で、意味不明な言動に僕の言葉は失われる。
「よっし! それじゃあ、朝もやってきたところだし、私は帰る!」
「え?」
そして、突飛な光さんの行動に首を傾げる。
「安心して潮。昨日も言った通り、しばらくバイトに来なくてもいいからね。それと潮用のパソコンと液タブは、テーブルの上に置いておいたからよろしくね」
知っている情報と知らない情報の二つを、連続的に、とめどなく紡いで光さんは、僕に背中を向けてそそくさとリビングから出て行こうとする。何かに追い詰められているような、何かにせかされているような足取りだ。
光さんの言動に僕は疑問符を口から放とうとした。けれど、僕の言葉はあの人の登場によって失われる。
美しい人は昨夜と違ってジーパンと白い長袖のシャツをその細い体に纏っている。そして、黒く艶やかな長髪を頭の後ろで一束にまとめている。そうした艶やかな美しさを誇る人は、朝日に当てられより輝く。
あまりにもはっきりとした輪郭の美しさと打って変わって、当の本人はまだ微睡の中に居るらしい。
「姉さん。どっか行くの?」
「仕事だよ。あんたと違って、私には仕事があるの」
「いや、僕にだって仕事はあるよ」
「あんたのは、あんたのための仕事でしょ? 私の仕事は人のための仕事なの。だから、遅れちゃいけないの」
光さんは、ほとんど自分と同じ身長のその人の胸に指先を当てながら、苛立ちが籠っている言葉をやはり口早に紡いだ。美しい人は急ぐ必要性について首を傾げている。その表情から察するに、光さんの言った言葉の意味が分かっていないらしい。
「まあ、あんたに理解を求めた私が悪かったよ」
「酷いこと言うね、姉さん」
「本当のことでしょ? それじゃあ、私は帰るから後は潮とよろしくやっといてね、
「分かった。それじゃ」
無理解に近いと思われる簡素な言葉を美しい人、いや叶さんは光さんの告げた。
光さんも叶さんが自分の言っていることを理解していないと察したのか、頭を抱える仕草をする。けれど、本当に時間が無いため、叶さんを睨みつけるとリビングから出ていく。
そして、力強く玄関の扉を閉める音がリビングに鳴り響く。
「あんな表情の姉さん、初めて見た」
素っ頓狂な表情を浮かべながら叶さんは、小さな声でそう言った。
表情と一致しない感情が籠っていない声は酷く冷たい印象を覚えさせる。
そして、叶さんは表情と感情が一致していない状態で僕に視線を合わせる。僕の目と冷たく澱んだ叶さんの大きな目が合う。
どうしてか叶さんの目に昨夜と同じように、僕は自分を見る。
哀れで、痩せっぽちで、貧乏で、誇れるものが何もない挫折した自分の姿を見る。
「ああ、松野潮? だっけ。今日からよろしく。君はやっぱり他の人と違うみたいだからよろしく頼むよ」
眠たげな表情の中に朝日の温もりと同じような笑みを浮かべながら、感情のこもっていない冷たい言葉を叶さんは僕に紡ぐ。
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