sorry

 倦怠とよく分からない罪悪感に抱きながら、僕は階段を下った。その間もずっと僕の耳には物が金属に当たる甲高い音が届いた。僕はその物が無しい音を受けるたびに、第一印象として受けた美しい下書きが克明に瞼の裏に浮かび上がった。そして、あの人の芸術から切り離された栄光に嫉妬した自分の醜い精神に痛みを感じた。

 纏まらない精神のまま、僕は光さんの居るリビングに入った。

 あの散らかっていた部屋は、短時間でそれなりに整頓されていた。物を入れるべき棚が無いから物自体は、床に置かれている状態だ。

 そうした整頓された薄暗闇の部屋の中で、光さんはガラス戸を正面に胡坐をかいてくつろいでいた。仕事の疲れと整理の疲れからか、光さんは我ここにあらずと言ったように見える。連続した仕事の疲れを癒す光さんに、僕は声をかけられない。


「おっ、帰ってきたね潮。どうだった、私の自慢の家族は?」


 声をかけられず、開けたリビングの戸の前に立ち尽くす僕に光さんはケロッとした軽い声色で問いかけてきた。

 光さんの質問は極々単純なものだ。けれど、僕はどうしてかその簡単な疑問に簡潔な言葉を返すことが出来ない。あんなことをされたのだから、『最低』だとか『暴力的』だとかの言葉で片づけられるとも思う。でも、僕はそんな簡単な言葉であの人を評したくない。あの人は、もっと、何か複雑な言葉で表されるべき人だから。


「まあ、答えられないよね。あんな不思議な奴」


「はい」


 答えを導けず、じれったく口籠る僕に対して光さんは逃げ道となる言葉を返してくれた。僕はそれに甘えて小さく頷く。

 そして、僕は光さんの傍らに佇む。

 差し込む街灯の光に照らされる光さんの後ろ姿はとても絵になる。それこそ一枚の絵に残しておきたいくらいに。けれど、僕にその腕は無い。僕は風景画しか描けない。あの人みたいに人間を描写することは出来ない。


「潮。あいつの絵、見てみた?」


「美しかったです。人間がキャンバスに居ました。僕には描けません。いや、というより並大抵の画家であれを描くことは出来ないと思います」


「そうだよね。ちなみにあの絵が完成したら、さっき潮が食い入るように見てたあの女の子の絵に匹敵する作品になるよ」


 振り向いて哀愁漂う笑みを浮かべる光さんの言葉に、僕はつい一時間ほど前のあの絵を思い起こす。

 風吹く草原に佇む少女の絵。

 僕が一瞬にして意識を奪われた美しい絵。

 手にしたいと願った芸術がありありと僕の記憶から吐き出される。


「けど、あいつは今、自分の絵を完成できないんだ」


 悔しそうに、けれどほんの少しだけ嬉しそうに光さんは微笑むと再びガラス戸に視線を向ける。


「どういうことですか?」


「心因性視覚障害。っていう、大人だとほとんど患わない障害を患ったんだよ」


 耳なじみのない障害に僕は首を傾げる。


「ストレスを原因とする障害らしくてさ、症状としては視力低下、視野異常、それから色々」


 独り言のようにあの人の症状を説明する光さんの言葉に、僕は顔を歪める。

 なんとなくあの人の言葉から、そしてあの下書きのキャンバスから察しがついた。


「あいつの場合は色覚異常。それも間接的にも、直接的にも絵の具に触れた時だけの限定的なね。あいつ、色が見えなくなっちゃったんだ。だから、今あいつの部屋にある絵は全部未完成なんだよ」


 光さんの伝えてきた言葉をして、僕があの人に掛けた言葉がどれだけあの人を傷つけたのかを知った。僕の嫉妬から生まれた純粋な賞賛は、あの人の今を切り刻む最悪の言葉だったんだ。

 階段を下ってくるときに感じた罪悪感の正体に僕は気付いた。そして、今すぐにでもあの人に謝罪したい。直情に従って、僕の足は動く。

 けれど、光さんに手首を握られて制止させられる。


「駄目だぜ、今行っちゃ。今行ったら逆効果だよ。謝るのは明日の朝で良い。あいつの気分が落ち着いた頃、謝れば良いよ。だから、今はあいつの気分のままにさせてやってくれ。独善的で、暴力的で、自己中心的な私の愛しい家族のためを思ってさ」


「分かりました……」


 光さんの制止にやるせなさを感じながら、僕はいきり立って興奮した心を静める。


「分かってくれればいいよ」


 僕の興奮が冷めやったことを確認すると光さんは、そっと微笑んで手首から手を離した。


「あと、明日のバイトは来なくていいよ。その代わり、あいつと親睦を深めてね。あいつ曲者だけど、多分潮となら話してくれると思うからさ」


「どういう信用ですか」


「勘だね。私の勘って意外と役に立つんだぜ? こと人間関係においては、ほとんどはずれを引いたことが無いんだよ。だからさ、私を信じてあのロクデナシと話してやってよ。それで心労が取れたら、きっとあいつの色覚も戻るだろうからさ」


 寂しそうにわずかな希望を見つめる光さんの言葉に、僕は愛を感じる。

 それと同時にガラス戸に映る光さんの浮かべる笑みに、僕は光さんの嫉妬を感じる。

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